■ 今 週 の 特 集 ■
ちょっぴり硬派な内容から、かる〜いノリのネタまで、
幅広く取り上げています!

→その他の特集記事


2007.3.31号

山田俊彦氏写真展第13回
■■ 40年前のメキシコ ■■

注:全ての写真の著作権は山田俊彦さんに帰属します。
無断でのご使用はご遠慮ください。
写真をクリックすると大きな画像で見られます

山田俊彦さんのプロフィール

写真についてのご質問や、リクエストなどはこちらから!

写真展第13回目は、メキシコの40年前の様子を切り取った記録です。今年(2007年)の4月は、山田さんが初めてメキシコに赴任されてから40年という記念すべき年なんだそうです! 「40年の間の変化は、メキシコより日本のほうがよほど大きいと思い知らされます」と感慨深げにおっしゃる山田さんが撮られた写真、みなさんも是非最近のメキシコと比べつつご覧になってください。また、同じ場所の現在の写真をお持ちのかたがいらっしゃれば、山田さんにお送りくださいね!

山田さんに教えていただいた当時のメキシコの様子も、合わせてご紹介しています。

* * * * *

★ メキシコ40年〜1967-69年 ★

☆出発 1967年4月28日 カナディアン・パシフィック機

この便は香港発ブエノスアイレス行きで、世界一周便を除くと最遠距離便です。DC8の機内は超満員。客の多くはバンクーバーに行く香港からの中国人で、ブリキの一斗缶を二つ三つ持ち込み、通路にまで溢れていました。所要時間15時間。同日発の同時刻着の便でした。


空港出口の案内 
人口700万。
現在2000万以上と言われてます


1967年、1ドルが360円、週刊誌が40円の時代にメキシコ入りした時の印象は、砂漠にサボテン、ソンブレロを被ったインディオ位のイメージしかなかった私にとって、大変なショックに出遭ったものでした。米国に近いメキシコでは、市内は当時の日本よりよほど進んでいたことが多かったようです。

到着翌日、スーパーに行ったら、その商品の豊富な事に驚かされました。米国の有名な加工食品のほとんどが国産され、店頭に山積みされていました。このような商品は、日本では青山の紀ノ国屋でしか見ることができませんでした。

日本ではまだ「ファーストフード」という言葉すら生まれていませんでしたが、メキシコではマクドナルド、デニーズ、サーティワン、シェーキーズなど、米国の有名チェーンを町中いたる所に見かけました。そしてコカ・コーラ。インディオがコーラを飲んでいる!と叫んだ日本人がいましたが、たしかに、日本では祝い事でも無ければ普段は飲めなかったものです。メキシコでは、道路さえ通じていればどんな田舎でも売っていました。


インスルヘンテス劇場前。
常に真っ青の空。
今では雨の直後でも中々見られないでしょう。


↑朝8時、インスルヘンテスとリオ・チュルブスコの交差点。当時は信号が無く、ロータリーで充分に裁けてました。レフォルマのアンヘル像の交差点もロータリーでした。今でも面影が残ってます。セントロの一部を除いてどこでも路上駐車に不便しませんでした。

【オフィスの様子】

日本ではまだ湿式複写機が主力で、ゼロックスコピー機は会社に2、3台しかなく、使うのに課長の印が必要でした。メキシコではごく当たり前に皆が使っていました。

秘書に関しては、全く米国のそれと同じで、日本の会社の女の子の使い方とは全然く違い、ちょっと戸惑いました。自分のスケジュールはすべて彼女の管理下、ファイルも自分では出せず、朝会社に出ると今日の貴方の予定はかくかくです、とまず言われ、その日が始まりました。家族の誕生日には、「花を用意しますか?」と、ここまで配慮してくれるのです。これも秘書学校で教えられたそうです。


交通量の多いレフォルマでもこの位。
ダイアナ像の手前。


クエルナバカ街道。どうですこの空き具合は!


グアダルーペ寺院。
大きく傾いた建物の復元作業中

10年後には新寺院が完成し、
傾斜も完全に直っていました

市電は未だ至る所で健在。
塗装が朱色に変わっていました。
インスルヘンテス通り。
市電の歴史に興味をお持ちの方は
http://www.tramz.com/mx/mc/mc00.html
数百両の車両は全部米国の中古で、デトロイトとミネアポリスのが多くありました。
恩返しか、最近復活したミネアポリスの市電には、メキシコ国産車が輸出されました


オテルデメヒコ(77年)。着いた頃オリンピックに間に合うように建設が始まり、岡本太郎氏が壁画に専念する姿が見られました。写真は10年後、オーナーが変わって建設再開し、屋上のレストランだけが造りかけのビルで営業開始していたといのものです。これも倒産のため完成せず。


1999年のオテルデメヒコ。今の青い貿易ビルが出来上がったのは何人目のオーナーで何時でしょうか。

【街の様子】

オリンピック開催の68年に、フランスの技術で開通した地下鉄一号線は、札幌より先にゴムタイヤの最新形で、改札はすでに自動改札でした。ただ、文字の読めない人々が主な利用客なので、駅の表示盤がすべて絵文字なのは、何とも表現しがたいアンバランスでした。

メキシコでは当時、ミニスカートが最流行していました。日本で全盛期をむかえたのは、この2,3年あとでした。

フィルター付きタバコも、普及率では先を行っていたようです。今でこそ海外での流行、技術は瞬時に日本に入って来ますが、この頃は米国に隣接しているメキシコの方が、色々の物が街に出回るのは早かったようでした。

マニキュアもそうですが、口紅の色の種類も、圧倒的に豊富でした。化粧は女の命、皆が個性を生かし各々粋を凝らして励でいました。

またどこに行っても必ずコダックの黄色の看板があり、どのタイプのフィルムも買うことが出来ました。ここまでは良いのですが、20数年経たいま、当時の日本のカラーフィルムを出して見ると、無残にも色が焦せ全くプリントしても古い白黒写真を見る様になってしまっています。ところがコダックは、今もって、プリントしても当時の鮮やかな色調がそのまま再現出来ます。当時これだけの技術を持っていた米国には脱帽です。ただしコダック以外の現像所の品質の悪かった事!フイルムが傷だらけです。

【家庭】

ご用聞きも来ず、主婦が夕方サンダルをつっかけてその日の楽しみの買い物に行く、という習慣のないメキシコでは、各家庭に米国とおなじ大きな冷蔵庫が台所にでんと置かれていました。日本はいまだに、この大きさの物を置ける家庭は少ないでしよう。またどの家にも大型のガスレンジがありました。変わった点は、種火が24時間ついたままとなっていることです。木造家屋で地震の多い日本では信じられませんが、何かの拍子に消えガス爆発なども起こすのではないかと心配です。

テッシュペーパーは、 日本では貴重品の様に大切に使われ、自動車のリアーパーセルに飾り物よろしく置いて有るのを良く見かけるくらいでした。メキシコでは文字通りちり紙のごとくつかっていました。

家を借りた時に、お手伝いもついていました。給料は私の給与がUS$550の時代に$20/月、ちなみに家賃は家具つきで$280でした。不思議なことは、文字が読めないのに、10点以上の買い物を頼んでもメモもせずにちゃんと買って来て、値段も正確に覚えている事でした。欲が無いのか面倒なのか、子供のお古の洋服を従兄弟にとあげたとき、後で塵箱を見ると、気にいったものだけ持って行き、あとは捨ててありました。そうかと思うと、週末に家に帰る時には砂糖、粉などを、僅かではあるが持ち出していたりしました。

使い方、信用の仕方は各家庭それぞれで、子供をすっかり預け放しの家、家人の居ないとき、夜は台所で仕切り鍵を掛け家の中には入れないひと、ひどいのになると暇の時は内職をさせ、かみさんの小遣い稼ぎをしているのもありました。リゾートホテルには女中部屋附きの所もあり、朝食時などは子供と女中ばかりでした。親達は夜通し遊んで朝寝坊なのです。

一年程経って、くにに帰りたいので辞めさせて欲しいといいだしました。もうすっかり彼女なしではやって行けない状態であったので、多少あわて、「代わりを探してきたら」と条件をだしました。そこは流石仲間同士、間もなくより良い交代をみつけてきました。次の子は読み書きもでき、車の免許を取りたい等と言う珍しい人で、刺繍が上手で帰る時まで良くやってくれました。帰国時家内に何を持って帰りたいか訊ねたところ即座に「フアナを連れて行きたい」との返事でした。8年程経て出張で行ったときは、バスで2時間もかけレコードを土産に逢に来てくれました。


ラグニージャ市場。何処から盗んできたのか本当の骨董品が山積み。蝋管式の蓄音機と中世期の貞操帯がみえます(これは後日アシエンダ ガビアの所蔵品となり再会しました)


古いピストルも山積み。リボルバーの部分だけ買い筆立てとして愛用しています。


グアナフアト。ピピラの丘からの眺め。色彩に乏しく一幅の墨絵の様。世界遺産になってからコロニアル風を強調するかのように極彩色で塗りたくられて仕舞いました。


地下道 車通りは殆んどありませんでした


オリンピック。エチェベリア大統領到着。儀杖兵の数に圧倒されました


日本選手団の行進。
当時参加選手数はこの程度の数でした


金メタル チャフラフスカヤの名演技


閉会式。直後に観客がフィールドに雪崩れ込み、一緒に行進するのはここから始まった様です。


ダイアナ像の前のイルミネーション

【生活】

電話は新しく申し込むと一年は待たされるので、電話付きの借家を探しました。掛けた方が「何何ですが」と言はずに、「DONDE HABLO?(私は何処に掛けていますか?)」、とか「QUIEN HABLA?(私は誰と話していますか?」と始めます。文字どおりに訳すと何とも変な感じですが、これは慣用句ですので気にしないこと、掛けられた側が何何ですと応えれば良いのです!

クエルナバカに掛けるのは交換台経由で2.3時間待たされ、急ぐ時はクルマですっ飛んで行く方が早かったくらいです。

公衆電話は米国と同じく故障の機械が多く不便でした。街角に簡易金庫があるのと同じですので、仕方無かったのです。大地震の再復旧作業と同時に、素晴らしいことをテレフォノ・デ・メヒコは考えつきました。料金を無料にすることです。これで高価な電話機を壊されることもなくなり、皆からも喜ばれました。

電話も郵便も、日本が余りにも良いので不満を感じる方が多いのですが、決して悪い部類には入らないと思います。多少遅くともちゃんと機能しているのですから。

それでも、より早くより安全にと、私書箱を利用する人が多い様です。

米国国境地区に住んでいる人の多くは、米国側の郵便局に私書箱をよく持っています。同時に電話まで米国の回線をどうやってか家庭にまで引き込んでいるには驚きました。小包、特に外国からのものは書留でなければ安心できません。それでも中身までは危ないものです。

メキシコには「○○さんの日」というのがあって、何日かは忘れましたが、「郵便屋さんの日」には配達する郵便の何十倍かのプレゼントを自転車に積んで嬉しそうに走っています。ただし何日か前から手紙をため込み、この日に配達するので、この頃の郵便は大遅配となります。「警官の日」もあって、この日街角で交通整理をしているお巡りさんの足元は贈物でいっぱいです。なんとも微笑しい風景です。今では宅配が普及し、DHL等何社があり、急ぐもの、重要な物はもっぱらこれが利用される様になりました。

【お金】

給与は、本社では行われていなかった銀行振込で、自分で小切手を切って現金にするという方式でした。サインのローマ字になじみがないため、銀行の窓口で手帳の見本のサインを見ながら小切手のサインをしたら、盗難品と疑われて警官を呼ばれ、取り調べられたという人がいました。

大金持ちは全て顔で付けで買い物をし、中産階級は小切手とクレジットカードを併用、中産以下は現金、田舎では物々交換、といった4つの「通貨」が使い分けられていました。

国が広いこと、金持ちが多いこと、飛行場も600位あり、誰でも簡単に利用できるので、自家用機も多く、当時、5000機とも言われていました。最新のビジネスジェット機から、米軍機払い下げの改造機まで、種々雑多のものが飛んでいました。仕事で工場を訪問するときなどは、自家用機を廻してくれ、機内で一杯やりながら行ったものです。お金の無い人のために、どの空港にもチャーター機の窓口が有り、簡単にどこでも安価に行けました。双発機を借りて、プエルトエスコンディードまで友人と家族で旅行したこともあります。


プエルトエスコンディード。自然の姿がそのままの海岸。未だ鄙びた村で、交通の便は無く、小型機を雇って行きました。


亀はこの様に乱獲されていました。
用途は輸出用の日焼け止めの油。


塩田。
ゲレロネグロを是非見たいです


1968年


1977年


遺跡ウシュマル。古いままの方が趣が有って良いと思うのですが、安全の為にか10年後には物の見事に修復されていました。

10年後。遺跡は修復だけでなく新たな発掘も各地で進んでいます。アステカの暦が出土したSLP州の都市遺跡近辺も今年から入場が許可されます。

【交通】

革命時代に既に大活躍し、全国に路線網を持つ鉄道も、道路・航空路の整備によりその主の座を去って久しいですが、今だ健在です。米国と直接接続しているので貨物輸送はまだ基幹主要手段ですが、旅客輸送は長距離で寝台車が附いている列車は僅か十本足らず、それも一日一本しか運行されていません。 速度もバスに比べても遅く、時間もあまり正確では無く、一般の旅行には不向きかも知れませんが、ゆったりした車両でのんびり景色を眺め、車中でできたアミーゴと語いながらの旅は、また格別の味があります。寝台車、食堂車、展望車等の優等車はその殆どが中古車で、それも米国鉄道の全勢期の名車ばかり。鉄道フアンなら涙とよだれを同時に流すような代物です。メキシコ市発の寝台附き優等列車はモンテレー、ガダラハラ、ベラクルス、オアハカ、ウルアパン、デュランゴ、シウダドフアレス、ヌエボラレド、メヒカリ、メリダ行きと昼汽車のサンミゲル・デ・アジェンデ行きがあり、何れも食堂車が連結されておりテーブルクロスの掛かった机で、なかなかよい食事のサービスが受けられます。料金も寝台を使っても航空機より格段の安さ。

航空機は、ジェット化される端境期で、ローカル線はプロペラ機の最後を飾るに相応しく、米軍の払い下げを含め多数の機種が活躍していました。JALのジェット導入と同じ60年には、メヒカーナがコメット4型を6機導入し国際線と国内長距離に使用。本格的な国内線のジェット化は68年727とDC9でした。プロペラ機はDC3、DC4、DC6、C46、Martinなど、ターボプロップはHSのみでした。航空会社は大手の2社以外に群小会社が数知れず、保有数機で奮闘していました。68年の私の誕生日に、アグアスカリエンテスの新空路開設の一番機が帰途墜落し、その後30年近くこの路線はありませんでした。飛行機フアンにはたまらない時代でした。

自動車は、当時、外貨不足で生産は割当制で生産が制限されたため新車が少なく、戦前からの車を大切に使っていました。いたるところにエンコした車があり、地方への道も動けなくなったバスが常に見られました。金持ちの多いメキシコでは、欧米の最高級車がごろごろしており、クラシックカークラブの展示会は眼を見張る種類ありと、あらゆる車種が揃い見ものでした。安全ベルト・チューブレスタイヤは、全車に採用したのは本社よりメキシコ日産の方が早かったです。

【幼稚園】

子供二人が近所の幼稚園に2年間通いました。英語の時間も多少ありました。日本で言う2年保育で、下の子はおしめ持参です。トイレにはお守り役の小母さんが居て、ちゃんと始末をしてくれます。

ある時、家内が呼び出しを受けました。子供の尻に痣が出来るほど強く叩いてはいけないと言うのです。東洋人の蒙古斑点を知らない小母さんが、娘の尻の青あざを見てびっくり仰天し、先生に報告したらしいです。

人形・ 玩具は自由に持って行って良いことになっていました。大きな人形を買ってもらった子は、御揃いの洋服を作ってもらって嬉しそうにやってきます。

ゴーゴーの流行していた時期でした。授業がおわると先生は、椅子机を端によせさせ、自分が先頭になって皆でゴーゴーを踊ります。

学芸会の衣装・飾り付けは大変凝ったもので、紙で全員服を作り、踊りや劇をしました。

送りは家族かお手伝いがつれてゆくが、帰りは登録した人でないと出口で子供を渡してくれませんでした。安全に対する配慮はさすがです。もっとも訴えられたくないことが先立っているのかもしれませんが。

東洋人の子供はまだ珍しいらしく、一晩貸してと言われ、時々友達の家に泊まりに行っていました。子供のおかげで、親も知人が出来て、里帰りに一緒に地方につれて行ってもらったりしていました。

学習よりも躾をしっかりとやっていました。男は歩道の外側で歩くこと、道を渡るときは女性の手をとること、人の名前はその場で覚えるといったことでした。


ハニツイオ。
変わらぬマリポサ漁業。
水は綺麗でした


今はぎっしりと家が立ち並んでます


プログレソ。メリダのエネケン出荷港。
世界一長い桟橋


アカプルコ。既にパラセールが有りました。
何でも日本よりも早かったです


まだコンテナーは無く、
部品は木箱で輸送されて来ました。
アカプルコの海岸通りは、船が着くたびに箱で一杯で、苦情が寄せられました。


ローラベルトラン。
当時現役で最も有名だった歌手。グアダラハラの闘鶏場での演奏会です。観客は興奮すると座布団ならぬソンブレロを投げました。彼女はうまく受け取って投げキッス。ランチェロの女王と言われ切手にもなってます

ルースコラール。革命の英雄、パンチョビジャの夫人の一人ですが、政府が公式に認めた未亡人です。77年チワワの記念館にて(85歳)。穏やかに昔話をしてくれました。1923年に未亡人になり、81年に亡くなりまし
た。

http://www.calnative.com/stories/n_msvilla.htm



皆で盛装してお出かけ。
もう田舎でも裸足で歩いている人はほとんど見掛け無くなりましたが、当時靴は貴重品でした。

幸せな人
当時現役のエリザベステーラーとアンブライスに囲まれ仕事に励むタラベラの陶工

オアハカのコヨテペック
黒陶器の元祖と言われ、今では銅像にもなっているドニャ・ロサ。壷の製作実演の後は、自ら売り子に変身します(77年)。

山田俊彦さんプロフィール

1967年から3年間、駐在員としてメキシコに滞在。その後、仕事で10回以上,遊びを兼ねて数回訪墨し、滞在期間を合わせると延べ5年間ほどになります。その間撮った写真が数千枚!きっちりPCに保存されていて、お宅を訪問したayaもkanaeもひたすらその整理術に脱帽。。。メキシコ以外の旅行もたくさんなさっており、今一番のお勧めは「チュニジア」。メキシコについては鉄道もお詳しく、今ではほとんど不可能な「メキシコ・列車の旅」をたくさん実現なさったとのこと。音楽から民芸品から食べ物から、何から何までメキシコのことを心から大切に思っておられるのが、暖かなお話ぶりから伝わってきました。

(kanae)


このページのトップに戻る