メキシコっていったいどんな国?という方のために、
ごくごく基本的な情報を集めました。
より詳しい情報をご希望の方は、メールにてお問い合わせください。
ソースやその他の第一次資料をできる限り調べてご案内します。

歴 史 概 略
概 略
メキシコはどの時代をとっても興味深い史実にあふれており、各時代や歴史上の出来事に特化した書物が数多くあります。(→本のデータベース)ひとつひとつの歴史的出来事や時代についてはそうした本を参照していただくとして、ここではごく簡潔に、1.古代文明が栄えた時代、2.スペインによる植民地時代、3.革命と自由主義の時代、4.現代に区切ってメキシコの歴史を概観してみたいと思います。

1. 古代文明の繁栄

 メキシコを含むメソアメリカと呼ばれる地域では、メキシコ中央高原とマヤ低地(ユカタン半島からエルサルバドル北部までを含む)を中心に数多くの文明が栄えました。中でもメキシコ湾岸のオルメカ文明は1千年近く栄え、メソアメリカ文明の母胎となりました。中央高原で最大の都市国家を築いたテオティワカンは7世紀後半から崩壊し始めます。それと時を同じくして他のメソアメリカ文明も連鎖的に衰退していきました。マヤ低地の文明も、10世紀はじめにことごとく失われ、密林化していきましたが、その原因については確立された定説はありません。1519年にスペイン人が到達したとき最も強大だったのは、水上都市国家ティノチティトランを中心とするアステカ帝国でした。

2. スペインによる植民地化

 スペイン人は急速にアステカ帝国を侵略し、ティノチティトランを徹底的に破壊すると、その上にカトリックの大聖堂を建立しました。これが現在憲法広場と呼ばれるメキシコ市ソカロ(中央広場)のカテドラルです。かつて湖であった土地を埋め立てて建てられたため、地盤沈下に悩まされています。カテドラルは修復が繰り返し行われ、内部には傾きの変遷をたどれるよう、円錐がぶら下げられその軌跡が床に記されています。

 16世紀半ばには植民地最大のヌエバ・エスパーニャ副王領となり、スペイン国王による植民地経営の重要な拠点となりました。植民地時代初期にはグアナファトやサン・ルイス・ポトシで銀鉱脈が発見され、鉱山開発が経済活動の中心となりました。労働力として駆り出された先住民の人口は、この時代に激減しましたが、過酷な労働だけでなく旧大陸から持ち込まれた伝染病も、先住民人口減少の原因となったと考えられています。鉱業は18世紀半ばまでに衰退し、次第にアシエンダ制(→写真展「アシエンダ」)と呼ばれる大土地所有制が台頭、20世紀に至るまで封建的な経済・社会制度としてメキシコ農村部を支配しています。

3.3つの革命と近代化

 近代化課程で重要な役割を果たしたのが、独立革命(1810〜1821年)・レフォルマ(改革)時代(1854〜1867年)・メキシコ革命(1910〜1940年)の三つの革命です。1810年、イダルゴ神父がメスティーソ(混血)やインディオを率いて武装蜂起し始まった独立革命は、結果としてスペイン本国人(ペニンスラーレス)による支配が植民地生まれのスペイン人(クリオーリョ)による支配に切り替えることになっただけでした。その後、米国との度重なる戦争で国土の半分以上をアメリカに奪われると、自由主義勢力の不満が爆発し、本格的な自由主義改革が始動します。強大な封建主義勢力だった教会と植民地体制の解体が行われることになりました。この時代に初めて、インディヘナ出身のフアレス大統領が誕生しています。

 1910年に始まったメキシコ革命は、25年続いたディアス独裁政権(ポルフィリアート)に対し、政治的民主主義を求める勢力が立ち上がって起きたましたが、それまでの革命との大きな違いは、ディアス政権下での経済発展の結果政治・社会的に啓蒙された労働者や農民が存在し、彼らを率いて戦う革命勢力がいたことでした。ポルフィリアートに関しては、最近ではメキシコの近代化と経済発展の基盤を築いたとして、その意義を見直す立場も有力になってきています。社会改革を求めるこれら諸勢力同士が互いに離反・対立した動乱期も、1917年の憲法制定(現行憲法)で終結しました。

4. 安定的経済成長と失われた80年代

 革命後のメキシコでは、民族主義が高揚し、アメリカに対して不干渉を求める姿勢を明確にしました。とくにカルデナス政権では積極的に「メキシコ化政策」が推進され、石油も国有化されました。これが現在のメキシコ石油公社PEMEXの始まりです。その後、1940年〜1970年代初頭にかけて「メキシコの奇跡」と呼ばれる、インフレを伴わない安定的高度成長を実現します。しかし、貧富の格差は特に都市部と農村部で逆に拡大していきました。一方、外国からの借款と石油輸出に支えられた経済開発政策は、80年代に入ると完全に破綻してしまいます。

 1982年には債務返済不能に陥り、他のラテンアメリカ諸国同様、経済停滞・高インフレ・高利子率に苦しむ「失われた80年代」を経験します。その結果、IMF・世銀の指導のもと、経済構造改革と貿易自由化・市場開放を余儀なくされました。他のラテンアメリカ諸国と比べ早い時期に高インフレ・経済停滞を克服でき、北米自由貿易協定NAFTAやOECDに加わるなど、一見先進国の仲間入りをしたかのように取りざたされました。しかし、この間国民に強いた「社会的コスト」と呼ばれる犠牲は多大であり、メキシコ革命以来政権を握ってきた制度的革命党PRIに対する不満が拡大していきました。1994年1月1日には、メキシコでもとくに貧しい南部の州、チアパスからサパティスタ民族解放軍(EZLN)が武装蜂起し、先住民の人権と生活改善を訴えて政府との交渉を続けています。

 2000年の大統領選挙ではついに国民行動党PANがPRIに勝利し、PRIは71年間に及ぶ一党独裁体制に終止符を打つことになりました。

古代文明
B.C.12〜 メキシコ湾岸にオルメカ文明が栄える。巨石人頭像が有名。
B.C.3 オアハカにモンテ・アルバン、中央高原にテオティワカンの宗教都市が築かれる。
A.D.6 テオティワカン、人口20万人を擁する大帝国となる。
A.D.10 テオティワカン滅亡。その後中央高原にはトルテカ文明が栄える。
A.D.13 アステカ文明が栄える。メキシコ各地に影響力を持つ。
植民地時代
1519年 エルナン・コルテス率いるスペイン軍がベラクルスに上陸し、次々とアステカの町を侵略。
1521年 首都テノチティトラン(現在のメキシコ・シティ)も陥落し、以後300年もの長い間スペインの植民地となる。メキシコ先住民の風俗や伝統に、スペイン文化が混じりあい、独特の混血文化が形成されていった。
独立時代
18世紀末〜 アメリカ合衆国独立などに刺激され、メキシコでも独立運動が活発化していく。
1810年9月16日 独立戦争が勃発。その火ぶたを切ったのは地方の司祭ミゲル・イダルゴ。(翌年処刑)
1821年 スペイン軍の司令官イトゥルビデが独立運動に協力したことにより、独立達成。但し新メキシコ帝国の皇帝にイトゥルビデが強引に就いたため、不安定な政情が続く。
サンタアナ時代 (在位1年半で皇帝イトゥルビデが失脚。サンタアナ支配時代へ突入)
1824年 連邦共和制に移行。
1829年 軍人サンタアナがスペイン本国の遠征軍をサンタピコにおいて撃退し、国民的英雄となる。
1833年〜1855年 サンタアナ、大統領として君臨。しかし政治的手腕がなかったため、国内は大混乱に陥った。各地で先住民による反乱が起こり始める。
国境紛争
1836年 テキサスの分離独立運動が過熱し、独立を支援するアメリカ合衆国と戦火を交える。無謀なテキサス戦争の敗北によりメキシコは広大な領土を失った。
1844年 アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ボークがテキサス、カリフォルニアの併合を主張。メキシコ国側はこれをアメリカ合衆国のメキシコ国に対する宣戦布告とみなす。
1845年 アメリカ合衆国がテキサスの併合を承認。国境にあたるリオ・グランデ川まで兵を進めてメキシコ国を挑発。アメリカ合衆国とメキシコ国の戦争勃発。
1847年 アメリカ合衆国、メキシコ・シティを占領。国境紛争終結。
近代改革(レフォルマ)時代
1848年 グアダルーペ・イダルゴ条約締結。これにより、メキシコ国はリオ・グランデより北のテキサスを承認。さらに現在のカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナを含む広大な領土をアメリカ合衆国側に割譲する。
1845年 サンタアナに反対する人々が「アユトラ宣言」を発して反乱を起こす。
1855年 サンタアナ国外追放。この反乱の中心的役割を果たしたのは、自由主義的な政治家、知識人、旧軍人達。彼ら自由主義者によって、メキシコで最初の本格的な自由主義的改革が行われる。
1857年 憲法制定。しかしその内容が自由主義的であったため、教会をはじめとする保守派が強く反発、12月から約3年にわたって内戦が続く。
1861年 内戦を指揮して勝利を収めた自由主義派のベニート・フアレスが大統領に選ばれる。
ベニートフアレス時代
1864年 フランス軍ナポレオン3世の圧力により、オーストリアからマクシミリアン大公をメキシコ皇帝として迎え、帝政をしく。しかし、メキシコ・シティから亡命したフアレス政府は、ゲリラ戦による抵抗運動を開始。
1867年 マクシミリアン処刑。内戦終了。
1867年〜1872年 フアレスは大統領就任中、教育の振興、製造業の奨励などの政策を行い、メキシコ近代化を促進。彼は現在で最も尊敬されている大統領と言われている。
ディアス政権の独裁時代
1876年〜1911年 ポルフィリオ・ディアスが政権を握る。経済的に目覚しい発展を遂げた時代であったが(鉄道、港湾、通信網などのインフラ整備・新たな銀行の設立・商業の活発化・工業や農牧業の拡大など)、これらは外国資本の誘致による経済開発であった。
1910年 外国の資本家達にメキシコの土地の7分の1から5分の1を所有される事態に。ディアスの独裁支配のもと、農民からの土地収奪が進行し、労働者は過酷な労働条件のもとで働かされ、巨大な土地や鉱山を所有する外国人に国の富を取り上げられ、それに反抗するものには弾圧が加えられた。
メキシコ革命
1905年 反ディアスの知識人達が自由党を結成し、各地で大規模なストライキが起こる。南部のモレロス州ではエミリアーノ・サパタが農民闘争を開始。
1910年 北部コアウイラ州の地主、フランシスコ・モデロが革命を起こし、それに呼応してサパタやパスクアル・オロスコが立ち上がり、激しいゲリラ戦が始まる。ディアス軍隊は革命軍によって敗れ、ディアスは失脚してパリに亡命。
1913年 大統領に選ばれたモデロは、サパタらが望んでいた土地改革を実行しなかったため失脚、暗殺される。マデロに代わってビクトリアーノ・ウエルタ将軍が国を掌握しようとするが、コアウイラ州知事のベネスティアーノ・カランサやアルバロ・オブレゴンなど「護憲派」と呼ばれる地主層とサパタや義賊あがりのフランシスコ・ビジャが各地で闘争を開始。
1914年 ウエルタ将軍失脚
1914年10月 カランサ、オブレゴン、サパタ、ビジャがアグアスカリエンテスに集まり、革命政府の形態や政策について話し合う。しかし、地主で保守的なカランサと、農民の代表で土地改革に重きをおくサパタ、ビジャの間には深い溝が生じる。
1915年 セラヤの闘いでオブレゴン軍がビジャ軍に勝ち、カランサ、オブレゴン派(地主・資本階級)が優勢となる。
1916年 ケレタロで制憲会議が開かれる。代表者達は「護憲派」によって占められていたが、6年間にわたる闘争に大いなる力を与えた農民の声は無視できない状況に。
1917年 憲法(現憲法)制定。
その内容は個人の基本的人権、政治的自由、国会と教会の分離について規定し、土地改革やストライキ権を含む労働者の広範囲にわたる権利の保障や地位の改善に関する規定を含んだ、きわめて改革的な憲法である。
憲法制定後、メキシコは農地改革、主要産業の国有化など国家社会主義の色濃い政策を推し進めるに至っている。
1938年 ラサロ・カルデナス政権のもと、外国資本によって支配されていた石油産業を国有化。
現代
1968年 メキシコシティ地下鉄開通
メキシコオリンピック開催
トラテロルコの虐殺
1970年代 豊富な石油資源を元に工業が進められた硬度経済成長を実現し、「メキシコの奇跡」と呼ばれた。同時に、対外債務も急増した。
1980年代 石油価格の下落とインフレのため経済危機に陥り、深刻な対外累積債務問題に苦しむ。ラテン・アメリカ全体で、「失われた80年代」と呼ばれた経済危機の時代であり、IMFや世銀の指導による構造調整政策がとられる。公共支出の削減などで貧富の格差が拡大した。>>詳細は「経済事情」へ
1985年 メキシコ大地震、死者/行方不明者X人に及ぶ。
1994年1月1日 米国/カナダと締結した北米自由貿易協定(NAFTA)が発効、表面上は先進国への仲間入りを果たす。自由貿易は穀物や野菜を栽培する零細農家に打撃を与えた。長年の差別的処遇に反対するチアパス州では、先住民系の農民達が武装蜂起し、政府軍と対峙。
1994年12月 政府与党である制度的革命党(PRI)の有力大統領候補コロシオが暗殺され、エルネスト・セディージョが大統領に就任。ペソの急落をデフレ政策で乗り越え、任期後半には石油価格の高騰といった状況にも支えられて通貨の安定を実現。
2000年 メキシコ革命以来73年に及ぶPRIの一党支配は歴史的転換を迎える。6月に行われた大統領選挙により、国民行動党(PAN)のビセンテ・フォックスが12月、大統領就任。
主な参考文献: