第7話

からーいチリが常にテーブルに置かれている。
にんじんは酢漬けだ
シルビオ通信

父の二十年前の選択−−つまりギターをあきらめ勤め人に徹すること−−は恐らくものすごく勇気のいる決断だったに違いありません。もしかして続けていれば今ごろは、という仮定をすることは失礼にあたるでしょう。むしろその決断はあまりに正しすぎたに違いない。しかしこの数十年、胸の中ではいつも葛藤があったことでしょう。だってその間無趣味だと自分で言い張ってきたのですから。つまりギターは彼にとって趣味なんかじゃ済まされないほど大きなものだったのです。復活した今、あっという間にギターに没頭していく父の話を聞くにつれ、僕は胸がいっぱいになります。「よかったな」という思いと「後何年弾けるのか逆算しているんだろうな」という思いで。

 グラントルタでの武者修行を終え、僕はポソレ用のとうもろこしの缶詰やトルティージャ用の粉マセカ、それに唐辛子チレ・グアヒージョに始まる数種類の香辛料を市場を回って集めた。でも一つ大きな課題がまだ残っていた。トルティージャを作る道具が手に入っていないのだ。あの卸問屋で買ったはずの機械は、結局師匠が買い取る形で僕の手元を離れた。業務用の機械を使いこなすには時期尚早だったというわけだ。それから僕は町中にある市場を回り、厚い鉄板二枚で生地をはさんで延ばすプレス式のの道具を探し歩いた。少し原始的だけど、こちらの方が確実だ。でもどこを歩いてもありそうでなかなか見つからない。爪がはがれかけた足のせいで、僕はだんだん歩くのが億劫になってきた。

 いったいどこに行けばあるのか、僕は町の中心にあるベインテ・デ・ノビエンブレ市場にターゲットを絞った。外の日差しが強烈なだけに、野菜や肉、皮製品なんかも売っている市場内はひっそりと暗い。

 台所用品を売っている店に聞いて回ることにした。ある場所ではただ「ないよ、そんなの」と言われ、ある場所では「アバストスの市場に行けば」と答えが返ってきた。しかしアバストスは歩いていくと半時間はかかる。今の僕の足では無理だ。そんなとき、あるおばさんが、「市場の外にガラス製の贈答品なんかを売っている店があるから、そこへ行けばきっとあるよ」と教えてくれた。そこはお祝い品なんかを売っている場所だからまったく思いつかなかった店だけれど、もしあれば儲けものだ。そしてそこに鉄製のトルティージャ・プレスマシーンを見つけて僕は舞い上がった。

 しかし、こいつもまた分厚い鉄板が二枚ついているだけにばかに重いのだ。旅の際、一番気になるのは誰だってスーツケースの重さだろう。でも今回の僕は捨て身だ。重かろうがかさばろうが何だって持って帰ってやる。もうしばらくはこないつもりでやって来ているのだ。すでにポソレ用のとうもろこしは三キロ強の巨大缶詰を買っているし、マセカの袋は二つ、唐辛子の袋、さらにトルティージャを入れるプラスチック容器、そしてグラントルタでタコス用に使われていたシーズニングスパイスの大瓶を、鶏肉用と牛肉用で一つずつ買っていた。それだけでは済まない。おびただしい量のお土産とスペイン語の小説や絵本、CDやビデオもすでに荷物に入っている。極めつけはアツォンパという村で作られた素焼きの絵皿だ。直径七十センチはあるその皿を「一枚買うなら二枚も三枚も同じ」と三枚まとめて買ってしまったのだ。これは箱に入れて手提げで持って帰る。

 一個だけ残っていた銀色の鉄製マシーンを買い、僕はへとへとに疲れて店を出た。リュックに食い込んだ鉄の塊はどうやら二キロ以上はありそうだ。部屋に帰って早速僕はグスマン家のみんなに見せびらかそうと取り出した。が、次の瞬間僕はがっくりと肩を落とした。破損しているのだ。取っ手が根元で割れてしまっている。

 「レシートは?」とキオが言った。返品交換するしかないのだ。僕は財布やかばんやマシーンが入っていたビニール袋の中をごそごそと調べ、「ない……」と答えた。どうやら疲れてレシートをわざわざもらうことを怠ったみたいだ。記憶があいまいでよく思い出せない。

 それでもしばらく休憩した僕は気を取りなおして、その店に電話を入れることにした。ここはメキシコだ。たとえレシートがなかったとしても、もしかして僕が運んでいる間に壊したのだとしても、言いようによってはうまく交換してもらえるかもしれない。

「さっきトルティージャのプレスマシーンを買った者ですが、壊れている個所があったので、交換していただきたい」
「あ、覚えていますよ」
「そう日本人の!」
「少々お待ちください。店主にかわりますから」

 メキシコにいると僕の東洋顔は目立って便利だ。観光客がまず入らないような店で買い物をすれば、間違いなく店員は僕のことを覚えてくれている。後は懐柔作戦でいろんなことがうまくいくにちがいない。だけど店主の声は冷たかった。

「お客さん、レシートをお持ちですか?」

初老の女性だ。

「レシートをお持ちの場合は、商品をお持ちいただいて、もともとの破損だと確認できればよろこんで交換いたします」
「いや、レシートはくれなかった」
「それではちょっと交換しかねます」
「とにかく持っていくから、見てください」
「来てもらってもかまいませんが、レシートがないと何とも……」

 らちがあかない会話を切り上げ、僕は部屋に戻った。電話の様子だと何だか難しそうだ。だんだんあきらめかけていたときに、グスマン夫人が通りかかったので僕は壊れたっ機械を見せて事情を説明した。

 夫人の答えはこうだった。まず、絶対にあきらめずに食い下がること。自分の非を見せないこと。つまりレシートは店がくれるべきもので、くれなかった方が不親切で悪い。とにかくマシーンは最初から壊れていたと信じる。最後の一つが陳列棚にあったのは、壊れていて誰も手をつけなかったのだ。レシートがなくても店のビニール袋に入っているし、値段のシールが貼りつけてあるからその店で買ったことははっきりしている。

 僕がぼんやり考えていたことや、思いもつかなかったことも含めて夫人はこれだけ交渉の材料がそろってるんだからと僕ににっこり笑いかけた。「生活のためにたたかうんだよ。最後の一個だったんなら、交換する商品は別のものでもいい。とにかくちゃんとその値段分ぶんどっておいで!」 実はわりあいに小心者だった僕は、翌日店に出向いて事情を説明し、夫人に言われたとおりのことをすべて早口にまくしたて、現物を店主のおばさんの机の上に置いて、破損個所を示した。

 店主の反応は意外なものだった。虫眼鏡のように分厚い眼鏡をかけた白髪のおばさん店主は、店員の一人を呼びつけて怒り出したのだ。昨日の午後僕が電話した時点ですでに内部でいろいろと調査をし、誰が「あの日本人」にトルティージャ・マシーンを売ったのかをつきとめていたのだ。「よく注意せずに包んでしまいました」と担当の女性は下を向いて言い、「何やってるんだかね!」と店主は低いどすのきいた声ではき捨てた。そして僕はその一部始終のあと、交換を受け入れられ、同じ金額分なら何を持っていってもいいことになった。さらに運がいいことに、その担当の女性がいろいろ調べてくれて、ショーウィンドーの端のほうに一つ残っていたと教えてくれたのだ。

 もちろん僕はそれを持って帰ることにして、一件落着したというわけだ。ただし、マシーンがやっぱり重いことに変わりはなく、今度はどうやって運ぶかが問題になるんだけれど。

 これで日本でもポソレとタコスを作る用意が万全になった。まずは何度か試作して、おいしくできようができまいが友だちに食べさせてみることが必要だろう。そして味が安定してきたら、僕は本当にグラントルタ二号店を出す計画を実践しなくてはならない。

 オアハカを離れる前日の午後、開店前のグラントルタを訪れた。タコスを習ってから四日後のことだった。おじさんにしばしの別れを言わなくてはならない。どれだけお礼を言っても足りないのは分かっている。だから僕はせめてもの僕の気持ちにちょっとしたプレゼントをポケットに忍ばせてきた。

「どうした? しばらく来んかったな」
「今日はお別れを言いに来たんよ」、僕がそう言うと、おじさんは少し口をつぐんだ。
「いつ来るんや次は」
「まだ分かりません。五月に子供が産まれるから、もしかしたら三年後ぐらいになるかもしれません」
「いやもっと早く来るやろ。おまえはこれからオアハカに毎年来て、いろんな材料仕入れなあかんねんから」
「そうですね……」

 ちょっと黙ってしまったおじさんに僕は突然パールのネックレスとブレスレットのセットをすばやく手渡した。こんなこともあろうかとお土産用に何セットか持ってきていたのだ。「これお礼ですから受けとってください。奥さんへのプレゼントに使うんですよ」

 するとにやっと笑っておじさんは、その太い手でビニール袋に入ったプレゼントをわしづかみにしてポケットに突っ込んだ。若い奥さんを大切にするんやで、と僕は胸の中でひとりごとを言った。

 おじさんは思い出したように立ちあがって何か飲むかと僕に尋ねた。そんなこと言われたら僕はシェークを頼むしかない。

「シェーク飲みたいな。だいたいどうやって作ってるかまだ教えてもらってませんよ」

 おじさんはそんなわがままな僕の態度にこみ上げる笑いをこらえながら、来いと手招きをした。

「ここにまずコップ一杯の牛乳を入れて…」

 最後の最後まで僕に大事な店のレシピを伝授する師匠がそこにいた。僕はそれを飲み干すと別れを告げるために立ち上がった。「がんばるんやで」おじさんはそう言いながら僕の背中をぽんぽんとたたいた。そして外は目がくらむほど明るかった。


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