第32話 「フロールからの手紙 後編」

グスマンファミリーとぼくら。こうやって見るとみんな迫力がある。

 ちょうどこの手紙を受け取った9月頃ぼくは今回の旅について手記を書き始めた。短かったからこそ、すべての詳細を丁寧に掘り起こすことでもう1度自分のたどった時間を追体験してみたくなったのだ。あるいはメキシコと自分の「距離」を確認したかったと言えるかも知れない。連載という形で、あるホームページに発表できることになり、ぼくは自分の見たものや経験したこと、そしてそのときどきの心の動きを書き続けた。ぼくにできることは、黙って過ぎ去った時間をなぞることだけだ。

 そんな旅行記の読者からある日突然メールが届いた。連載がそろそろ中盤にさしかかろうとしているときのことだ。そこには「ぜひオアハカで2、3ヶ月滞在してスペイン語の勉強をしたい」、「2001年の4月に会社を辞めるので5月には出発する」、「大学の授業はどのようなものか教えて欲しい」と書かれていた。見ず知らずのぼくにメールを送るなんて相当勇気がいったに違いない。だからぼくはその問いかけに対し、できる限り真摯に応じようと決めたのだ。何度かメールをやり取りしているうち、実際に会った方が手っ取り早いと思うようになったぼくは「一度会いましょうか」とメッセージを送信した。夏が終わって半年以上たった4月のことである。

 最初そのメールの主をぼくは男だと思っていた。文体が丁寧なために語尾や語り口で性別を判断できなかったし、「会社員だ」という最初の自己紹介を見て勝手にぼくは男性サラリーマンのスーツ姿を思い描いてしまった。「ミノリ」という名前を見てもぼくはなぜか男だと信じて疑わなかったのだ。でも会うことになった日の前夜、電話をかけてきたのは女性だった。ぼくは何が起こっているのかよく分からず、しばらく言葉を失った。そんなことまったく予想もしていなかったのだ。でもやっぱり彼女はメールでぼくがやり取りしていた本人だった。

 「あれ?てっきり男の人だと思ってました…」とぼくは思わず口に出してしまった。

 「え、女です私・・・。女ですけど大丈夫ですか?会ってもらえますか?でもこんな勘違いがあるなんて面白いですね」

 相手は落ち着いている様子なのに、ぼくの方はおろおろしてしまって言葉が出てこない。ぼくは彼女を男だと思い込んで長い間メールで話していたのだ。会う場所を相談しているうちに、彼女は結婚したばかりの夫を連れて行っていいかと聞いてきた。「もちろん」と答えながらぼくは少し複雑な気持ちになった。男だと思っていた人がダンナさんを連れてくるなんて。終始要領を得ないまま、翌日会う場所をやっとのことで決め受話器を置いた。背中にはじっとり汗がにじんでいた。ホームページを通して知り合い、メールで話をする。筆跡さえも分からないやり取りでは、こんな決定的な勘違いさえそのままにしてしまうこともありえるのだ。

 地下鉄の駅で2人に会うと、ぼくはまずミノリさんに勘違いを詫びた。彼女は見たところぼくより少し年下だ。大きな目、落ち着いた話し方、そして涼しそうな表情をしている。

 「私のメール、女の子っぽくなかったですか?」

 そう言って彼女はいたずらっぽく笑ってみせた。よかった、気を悪くはしていないようだ。

 「ミノリっていう名前、ミノルと似ていてまぎらわしいかも知れませんね」

 夫のコウジさんはすかさずフォローしてくれた。がっちりした体つきをしているけれどやさしそうな感じの人だ。聞くと2人はほんの1週間前に籍を入れ、一緒に住み始めたばかりの新婚夫婦だった。「でも実感ないんですよね」と2人は口々に言った。

 ぼくは2人と青山にあるブラジル料理の店に行った。ビュッフェ形式で食べ放題のランチが食べられるそのレストランには、土曜日の1時過ぎだというのにまだほとんど人がいなかった。ぼくはせっかくだからシュラスコを食べようと2人に提案した。この肉の串刺し料理はテーブルの上でじかに肉を切ってくれるから、エンターテイメントとしても楽しめる。初対面の人と食事するにはもってこいだ。サラダやスープを取り席に戻ったぼくらは、食事をしながらいろいろと思いつくままに話し始めた。

 ミノリさんは芯の強そうな女性のようだ。結婚したばかりなのに1人で外国へ行くのだから、確かに意志は強いのだ。学生の頃からメキシコの先住民文化に興味を持っていて、どうしても現地に行ってみたくなったのだ話してくれた。だけど彼女にとって海外への1人旅は今回が初めてで、しかもメキシコを含めラテンアメリカには行ったことさえないらしい。決めてしまったのはいいけれど、やっぱり不安なのか、ぼくにあちらの治安について詳しく聞きたがった。

 コウジさんは1人でミノリさんが行くことに心配を隠せないでいる。反対はしないけれど大賛成というわけでもないらしい。

 「知り合いがスペインに行って、泥棒に遭ったんですよね。急に人が集まってきて囲まれて、殴られて失神したんです。それで気が付いたらカバンがなくなっていたらしくて」

 そんな話を引き合いに出しながら、隣に座るミノリさんにちらりと目をやった。それを聞いてぼくは、その知り合いがどんな格好でどこを歩いていたのか知らないけれど、そういうことはメキシコでも起こりえることだし、それに関しては自分で責任を負わなくてはならないだろうと話した。特に女性が一人旅するのなら、できるだけ現地の人と一緒にいるようにした方がやっぱりいい。だけどミノリさんは行き先をオアハカに決めただけで、そこに知り合いもいなければ滞在先も決まっていないようだった。

 「だったら、グスマン家でホームステイしてみれば? ソカロにも近いし、大家族だからきっと一緒に生活すれば楽しいよ」

 ぼくは自分のホストファミリーの様子を説明した。小さなマーフェルやサラのこと、犬のブロンディーのこと、みんなのこと。おまけに1番下の妹イルマはミノリさんと同い年だし、いい友だちになれるかも知れない。

 「あ、本当ですか?ぜひお願いします。何か持っていくお土産があったら言って下さい。どんなに重いものでも肌身離さず持っていきますので」

 そんなわけでぼくは彼女の日程が決まり次第、グスマン家に連絡することを引き受けた。出発前の不安が少しでも和らいだのか、ミノリさんは「本当に感謝します」と繰り返した。でもうれしかったのは実はぼくの方だ。ホームページの連載がきっかけで、グスマン家と一緒に生活する人ができるなんて。女の子だから、きっとものすごくよくしてもらえるはずだ。

 レストランのホールはいつの間にか客で埋まり、みんな思い思いに少し遅い昼食を楽しんでいる。半分以上がブラジル人みたいだ。ウェイターのおじさんもブラジル人で、ぼくらがテーブルにいる間、ありとあらゆる肉の串刺しをこれでもかこれでもかと運び続けた。1メートルほどもある鉄串を白い皿に突き立て、「ウシノハラ」「トリノモモ」「スペアリブ」とつぶやきながら大きなナイフで肉をそぎ落としていく。そのたびにぼくらは後ろにのけぞりながら、血と肉汁がしたたり落ちるのを見ていた。もうこれ以上食べられないと肉を断るようになってから、それぞれがコーヒーを飲み、重い腰を上げた。

 ミノリさんはキラー通りを駅に戻って歩く途中、実はぼくのことを全然違うふうに想像していたのだと打ち明けた。「もっと日焼けしている人だと思っていたんです」、そう言ってまた彼女は涼しそうな目でほほ笑んだ。顔が見えない相手と知り合いメールで話していると、相手に対していろんな勘違いや思い違いをしてしまうものなのだ。ふたを開けてみれば、ぼくはどちらかと言えば色白な方だったし、ミノリさんは結婚したばかりの素敵な女性だった――。

 出発日の連絡がミノリさんから入ったのはそれから2週間ほどしてからだ。その知らせを仕事先のインドで受け取ったぼくは、さっそくメキシコに電話することにした。インドの朝から、夜のメキシコへ。ぼくは日本を通り越してオアハカへ、少し緊張気味に番号をダイヤルした。そう言えば夏の旅行から半年以上たっているけれど、グスマン家に電話するのはこれが初めてだ。

 受話器を取ったのはグスマン夫人本人だった。ぼくの声を聞くと大げさなぐらい喜んでくれた。取引先の電話を借りて少し恐縮していたぼくは、簡単に挨拶を済ませると単刀直入に用件を伝えた。「ミノリ」という女の子がホームステイに行くこと、部屋を1つ彼女のために空けておいて欲しいということ、そして大事な友だちだからしっかり面倒をみてあげてほしいということ。夫人は「そんなこと言わなくても、この家で日本人は最高のもてなしを受けるんだよ」とゆっくりした調子で答え、ぼくをホッとさせた。

 「ねえ、私もあなたたちのことを考えていたんだよ。なぜだか分かる?」

 今度は夫人の方からぼくに話があるようだ。興奮でちょっと声がうわずっている。何かうれしいことでもあったみたいだ。

 「いや、分からないな。どうしたの?」

 夫人はうれしそうに笑って、少し間を置いた。ぼくには夫人が大きく息を吸い込んだように聞こえた――。

 「イルマが結婚するんだよ!サント・ドミンゴ教会で。6月だから、あんたたちも来なきゃだめだよ、分かってると思うけど!」

 確かにメキシコへの旅は終わったみたいだ。そこで起こったできごとはひとつひとつが鮮やかで強烈だっただけに、今の生活は少しばかり静か過ぎるのかも知れない。でも日本に戻ってからのぼくは、いつでもふらっと行ける場所みたいにメキシコやオアハカを感じるようになっていた。まるで近所にある幼なじみの家のように。残念ながらイルマの結婚式には飛んでいくことができないけれど、代わりにミノリさんが出席してくれるはずだ。そしてもちろん祝福の気持ちは日本にいても決して変わらない。

 もう少しすればオアハカで暮らし始めたミノリさんから、絵葉書でも届くんじゃないかな。そこにはきっと「楽しくて楽しくて仕方がない」と書いてあるに違いない。「ごはんがおいしくて太りそう」とか言ってくるに決まってる。はたまた「だいぶスペイン語上達しましたよ」なんてことも書いてくるだろう。そんなことをいろいろ想像しているだけで、不思議にぼくはにやにやしながら毎日を過ごせてしまうのだ。

おわり

  


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