番外編 「日本の時間、メキシコの時間」

日本からぼくは空の濃い青に思いをはせた。手前はとうもろこし畑。

 隣のテーブルでは、学生らしき3人グループが大きな声でしゃべっている。ビールもかなり進んで色白の女の子の顔は赤らみ、目も口もずっと笑ったままだ。店のアルバイトも学生だろうか、座敷の奥に座ったぼくらに料理を運んでから、いちいち散らかった靴を整理している。

 ぼくとキオは新宿にある沖縄料理屋の座敷で、メキシコから一時帰国したレイコさんと6年ぶりに再会し、島豆腐やゴーヤチャンプルーを一緒につついている。金曜の夜は駅から少し歩くだけで疲れ果ててしまうほど人の波が渦巻いていて、たくさんの大学生が大騒ぎしている。3月の新宿は街ごととことん酔いつぶれようとしているみたいだ。

 「夏休みにメキシコに行こうと思っているんです」

 そうは言ってみたものの、まだ夏はずっと先のことだと思っていたぼくに彼女はすかさず飛行機の席を押さえるよう切羽詰った調子で言った。安い席は埋まるのがすごく早いというのがその理由だ。

 「JALの直行便があるから、それに乗ればいいよ。早めに予約を入れれば安い席が取れるから」

 久しぶりに帰国したレイコさんと再会し、ぼんやり考えていたぼくらのメキシコ行きが、にわかに具体化しだした。彼女が教えてくれた値段はぼくの予想を越えてかなり安いものだった。まだ本当に行くかどうかさえしっかり決めていなかったぼくは、慌ててかばんから手帳を引っ張り出し、夏休みの予定を調べた。カレンダーによると8月の第2週目の木曜日から翌週の水曜日までが夏休みだった。

 「ふーん、短いんだね。でも確か木曜日にメキシコ行きのフライトがあったよ。それで5泊してから火曜日の朝メキシコシティーを出て、水曜日成田着だ。それしかないよ」

 事をどんどん先へ進めていくのは相変わらずだ。ぼくはその勢いにつられて、早いとこ予約を入れないとまずいなという気分にまでなっていた。さらにメキシコには「正味4日間しかいられない」という彼女の言葉はぼくに結構重く響いた。ぼくは「4日しかない」というのを聞いて、だからこそ何が何でも行かなくてはという気持になった。

 オアハカの大学でレイコさんに出会って、もう8年以上になる。彼女はぼくより少し後にオアハカにやって来た、少しだけ年上の女性だ。一流商社を3年で退職し、大学4回生のときに卒業旅行でふらっと寄ったオアハカが気に入って、語学留学に来たのだ。確かに同じ大学で学んでいた。しかし彼女とぼくが決定的に違っていたのは、ぼくが日本に帰国することを前提として住んでいたのに対し、彼女はいつの日かメキシコで永住するという決意で来ていたところだ。

 日本に帰ればぼくは大学に復学するが、彼女には帰る大学も会社もない。その頃のぼくにはそんな状況に身を投じることがどれほど勇気のいることか理解できていなかったが、今ならよく理解できる。はっきり言ってとんでもない思い切りの良さだ。後戻りできないからかえってさばさばしている。

 何年かして彼女はメキシコシティーにマンションを買い、現在とある日系企業で働きながら暮らしている。いろんな試行錯誤もあっただろうが、結局は何もかも彼女の思うとおりにすべては運んでいるようだ。

 「オアハカの帰りにウチに泊まっていっていいよ。狭いところですけど...」

 そうわざと謙遜してみせながら、ぼくの日程をスケジュール帳にメモした。ぼくは彼女の行動力と思い切りを少しだけ分けてもらって、今度こそ本当にメキシコに行くのだ。

 顔の赤い人たちでいっぱいの道を、人ごみをかわしながら駅まで歩き、身動きが取れないほど込み合った改札口付近でレイコさんと別れた。

 「じゃあ、8月。待ってるから」

 紺のコートのポケットから片手を出し、彼女は少し手を上げた。たった一晩で、8月はぼくにとって決定的に待ち遠しい月に変身してしまったようだ。

 次の日からぼくらはいろんな旅行代理店に電話してフライトスケジュールを調べ、どうやって効率よく旅の予定を組むかをあれこれ相談した。合計7日間の休みだけど、移動でまるまる2日取られてしまうのだからよく計画を練らなくてはならない。さらに会社では、ぼくの海外出張の予定がきっちり定まらないため、休みの日程が分からない。だからぼくは「夏休みにメキシコに行くから、早めに予定を決めて欲しい」と意思表示した。

 日程は結局1週間ほど後にずれたが、盆休みから外れてかえってぼくには好都合になった。チケットが格段に安くなるし、飛行機の席も取りやすくなるからだ。

 今回の夏を利用して、キオはメキシコ特産のシルバーや民芸品を仕入れることを大きな目的としていた。実は昨年の11月、友だちの結婚式に出席するためキオは友人の女の子と2人でメキシコを訪れている。そのとき行った銀の産地タスコでたくさんシルバーの指輪やネックレスを仕入れてきた。これをきっかけにホームページでオアハカの民芸品とともにシルバー製品の展示販売を開始したのだ。売上は決して好調とは言えないけど、いつの日かそれで得たお金でメキシコと日本を仕入れがてらちょくちょく往復できるようになるのが目標だ。

 「タスコに1人で行くのはこわいな」

 予定を組むにあたり、キオは何度もこう言った。確かに女性が大量の銀と現金を抱えて1人旅するのはあまりおすすめできない。いくらよく知っている国とは言え、治安に関してはそれほど甘くない。ぼくが一緒に行くのがいいに決まっているが、オアハカがせいいっぱいで、タスコまで付き合う時間がない。タスコ行きをどう組み込むか、これがスケジュールの中でなかなか決まらなかった部分だ。

 誰か一緒に行ってくれる人を探していたとき、キオの弟から奥さんのアチャが一緒にメキシコに行きたがっていると話があった。弟とアチャは春先に結婚したばかりだが、新婚旅行でイタリアなどを回ってアチャが海外旅行にはまってしまったのだという。だけど弟の方には時間がないから、アチャの旅行熱をぼくらが引き受けることになったのだ。タスコに行ける道連れを探していたキオにはもってこいの話だ。

 そんなわけでぼくらの忙しい旅行のパートナーとしてアチャが抜擢された。添乗員付きのツアーでしか海外旅行をしたことがない彼女は、ぼくらの旅行スタイルをどう思うんだろう? 旅行が終わったら聞いてみようと思う。それにしてもアチャはほとんど言葉を交わしたこともないぼくら2人と本当に一緒に来るのだろうか? ぼくらは結婚式で真っ白なウェディングドレスをまとった彼女を遠目に眺めていただけなのに。

 いろんなフライトスケジュールを見比べ、結局ぼくらはデルタ航空に乗ることにした。帰りにシティーを出発するのが朝早いけど、これならオアハカまで出発日のうちに到着できるからだ。そしてぼくらはオアハカ滞在の後メキシコシティーの空港で二手に分かれる。ぼくはシティーでレイコさんの家に1泊してから帰国、キオとアチャはそのままタスコに向かう。オアハカでの宿泊先グスマン家にも連絡を入れた。大丈夫、心配しなくても泊めてくれる。

 荷物の準備をすすめていくのは、ばたばたしながらも相当楽しめる瞬間だ。途中で別れるからぼくもキオも1つずつトランクを持っていく。出発2日前の日曜日には、みんなへ1つずつお土産を買い、銀行でドルを手に入れた。高地のオアハカは真夏でも夜肌寒いから長袖のシャツも1枚用意した。お金、パスポート、飛行機のチケットそしてみんなへのプレゼント。何もかも揃ったのは前日の夜だ。

 出発前の数日間、ぼくは学生の頃いた2年間と、今回滞在する5日間という時間について思った。とりわけ生活がゆったりしているオアハカで、ぼくは比較的のんびり2年という時間を過ごした。ゆるやかに流れる空気に身を任せ、頻繁に催される種々の祭りの中に季節の移り変わりを感じた。また本当にいろんな人にも知り合った。そんな経験をしてしまったから、数日の滞在だけではただ忙しく動き回り疲れ果てるだけだとずっと考えてきた。そうして6年の月日をためらいっぱなしのまま過ごし、20代最後の夏がやってきたのだ。

 でもとうとうぼくらはこのスケジュールを決行する。そんなわずかな時間で一体ぼくに何ができるのか。結局日本のあくせくした時間をメキシコに持ち込み、ただぼくらは去っていくだけなのかも知れない。

 それでもそこに行き、少しでも多く以前知り合った人々に会う。そうすることで、この「5日間」がメキシコで過ごした「2年間」という時の流れの延長線上にあることを確認したいのだ。

 この旅がぼくに与えるもの。

 ――それはぼくが学生の頃過ごした時間が、今回の滞在としっかり結びつき、「2年と5日」という一連の時間になる。きっとそういうことなのではないだろうか。

 出発当日の正午前、ぼくらは成田空港の大きなレストランの入口で、先に来ていたアチャと落ち合った。目の前の彼女はジーンズに半袖シャツのラフな格好で、大きな銀色のスーツケースを横に置いていた。ドレス姿ではないスニーカーをはいたアチャがそこにいた。「アチャ、本当に来たんだ」とその思い切りにあらためて感心してしまう。

 そして彼女はメキシコでの「時間」を間もなくスタートさせる。ぼくはそんなまたとない瞬間を目撃することができるのだ。

  


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