第12話 「サントドミンゴのブレスレット」

ハイメの仕事場はアパートの入口。
馴染み客で支えられている本当に小さな店だ。
(写真は7年前のもの。横にいるのはお菓子売りの少年。)

 たとえば道を歩いていて疲れたとき、スペイン語のクラスが終わって少しボーッとしたいとき、ぼくはよく教会に立ち寄って木製のベンチに腰をおろした。明るくからっとした外の空気から、しっとりとした闇の冷たさの中へ、教会の中はまるで地中へもぐったみたいにその空間だけしんとしている。吸い込まれるようにどこまでも続く吹き抜けの丸天井を見上げては、その高さと頭上に広がる空間の大きさを理解しようとした。音をまったく掻き消してしまうその建物の中で、ぼくは頭の中をよぎるいろんなことを、一度音と一緒にきれいに消してしまおうとしていたのかも知れない。

 ソカロから北へ4ブロックもアルカラ通りを歩けば、オアハカでもっとも美しい教会として知られるサントドミンゴ教会が右手に姿を現す。キリスト教徒でもないのに、ここで天井の装飾を眺めながらじっと黙って後ろの方の席で座っているのが好きだった。様々な聖人の彫刻や祭壇なんかが持つ「意味」には結局何の興味も抱くことができなかったが、そこで黙って座る、それだけのためにぼくは教会を訪れたものだ。そしてまた、6年ぶりに訪れたサントドミンゴ教会の繰り出す無音の空間で、ぼくはじっと耳をすましている。一緒に来たキオとアチャが壁際の柵の中にある聖人像一体一体を丹念に見て回っている。その間ぼくはベンチで天井を仰ぎ、ただ耳をすましていたかったのだ。

 入口の木の扉をくぐり抜け、まぶしく白い石畳の広場へ出たぼくらに、ハンガーを持って2人の子供がかけよって来た。ぼくに声を掛けてきた褐色の肌、丸刈りが伸び放題のその少年は5歳ぐらいだろうか。汚れた白いシャツに、丈の短くなったチョコレートブラウンのズボン。ぼくの胸のあたりに向かって下の方から差し出されたハンガーには、紐で編んだいろんな色のブレスレットが何の規則性もなくびっしりと吊るされていた。

 彼の眼は大きく、瞳に人を惹きつける力があった。日本ではミサンガで知られるそのブレスレットをぼくらに買ってくれと言うのだ。こういう子供たちをソカロのカフェや教会前など、街のいたるところで見かける。恐らくこのブレスレットを売ることが、貧しい家庭に生まれたこの子供達が親から教わった唯一の生きるすべなのだ。

 ハポネス、ハポネス?

 その少年は無邪気な笑顔で、しきりにぼくらが日本人なのかと尋ねている。横には黙って、ただカラフルなブレスレットが下がった針金ハンガーを無表情に差し出してくる女の子がいる。もしかしたら妹なのかも知れない。日本の子供たちに当てはめれば、2人とも幼稚園の年長、もしくは小学校に上がったばかりの年齢だろうか。でも学校に通う、そんな機会はもしかしたらこの子達にはずっと巡ってはこないのかもしれない。

 いくらなの?

 1本1ペソ...

 1ペソ、つまり12円だ。これ1本作るのにどれくらいかかるのだろう。1ペソで何が買えるというのだろう。ぼくはポケットの紙幣1枚でハンガーごとすべて買えてしまうことを思った。学生の頃、ぼくはこういう路上の物売りにほとんど応じたことがなかった。ただ単に面倒くさかったのだ。でも今はポケットからコインを1枚引っ張り出して手渡し、ハンガーから紺と山吹色の紐が交互に編みこまれた1本をほどき、左手首に巻きつけた。コインを受け取ると子供たちは満足そうにぼくらから離れていった。

 この旅の間、ぼくはずっとこの紐ブレスレットを結んだままにしておいた。ただ、何となく、日本に帰るまでは絶対につけておこうと思ったのだ。

 ただ、何となく。

 ソカロを通って家に戻る途中、インデペンデンシア通りでハイメに会った。ハイメ・エベラルド・ゴメス。カセットとペンを路上で売る、ぼくより5歳ぐらい年上の青年だ。彼は足が悪く、上半身しか自由に動かない。普段はずっと座ったままだが、ぼくがハイメを自分のアパートに招いたとき、上体だけを使い松葉杖に全体重を掛けて歩く姿を1度だけ見たことがある。

 彼はとあるアパートの入口に上がる小さな階段で1日中腰をかけ、自分で仕入れたカセットテープとペンを並べていた。薄っぺらい板の上に、カセットを交互に組み合わせるようにしながら立てて並べ、丹念にディスプレーする。ピラミッドのように高く重ねられたカセットが一つ売れるたびに、そのすき間を埋めようと、バランスよく配列しなおした。少しでもきれいに見えるように、ゆっくりと。

 ある友人の紹介で、ハイメからソニーのカセットを買ったのが彼と話をするようになったきっかけだった。グスマン家から角を一つ曲がっただけのところに店を開いていたこともあり、ぼくは学校から帰宅し、昼食を食べ終わったらよく隣に座りに行った。背が低い彼は階段に座ったまま、いつもあまり指が曲がらないその手を差し出してぼくと握手した。通りを歩く人々を眺めながら、ぼくらはたわいもない冗談を言い合った。

 彼の大げさな笑い話が好きで、ぼくはよく子供が親に話をせがむみたいに聞きたがったものだ。でも客が来たら途端に彼は、テープの品質やペンの書き味について身振り手振りで丁寧に説明をした。そうすることで客が納得してテープやペンを買っていくから、小さなこの路上の店はリピーターで支えられていた。みんなハイメと楽しそうに言葉を交わし、にこにこしながら買っていく。

 そんな様子を見るにつけ、いつも心地良い笑いがこみ上げてきた。自由に動けないのを苦にせずいきいきと働くハイメを見ていると、将来を心配する自分がちっぽけに思え、逆にそれが痛快だったのだ。横に座っているだけですごく勇気が出る。そうして自らの力だけで生きるハイメを、アパートの持ち主のおばさんは、入口の小さなスペースと昼食を提供することで応援し続けた。リピーターとこのおばさんで彼は見事に支えられている。

 久しぶりに会った彼は、以前いたところから離れ、ソカロに近い空き家の入口に移って自分の商いを営んでいた。

 どうしたの? 場所移ったの?

 いやあ、あのおばさん死んじゃってね、もうあの場所では仕事できないんだ。でもここで続けているよ。

 残念ながら彼を応援する人が1人いなくなったが、とにかく店は続いていたので安心した。商品構成はカセットテープから文房具中心に変わっていたが、相変わらずの丹念な説明と選りすぐられた商品で客の支持を得ているのだろう。ブロックは違うが以前と同じインデペンデンシアで座っているから、馴染み客もハイメを見失うことはないはずだ。

 彼の横には母親が座っていた。初めて彼女に会うぼくをハイメはうれしそうに紹介した。

 手紙をくれたあの日本人のともだちだよ――。

 そう、ぼくは一回だけ日本から彼に手紙を送った。でもそれも5年以上も前のことだ。彼はその手紙のことを何度も母親に話していたのだろう。

 彼の母親はハイメにやさしく、厳しい。商品を出す朝と、しまう夕方だけ手伝いにきて、売っている間はいなくなるのだとハイメから聞いたことがある。だからぼくはハイメに知り合ってから今の今まで彼女に会ったことがなかったのだ。そんな強い人だから、ハイメは自分の力で生きていくすべを身に付けたのではないか。ハイメの母親は温かい笑顔でぼくに向かって大きくうなずいた。それはぼくだけでなく、彼を支える人たちすべてに感謝している、そんな表情にも見えた。

 また通るから...

 そう言って別れたが、それから彼を見かけることはなかった――。多分ぼくらの通るタイミングが合わなかっただけだろう。そうに決まっている。

 家に向かって歩道を歩きながら、ぼくは買ったばかりの腕時計みたいに、手首にした紺と山吹色のブレスレットを何度も見ている自分に気付いた。本当に「ただ何となく」つけたブレスレットが、すごくいとおしく感じられたのだ。それはもしかしたらサントドミンゴの少年や、ハイメの力を少しでも自分の物にできそうな気がしたからなのかも知れない。

  


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