第六話 「オアハカで、まずは深呼吸した」――メキシコシティーそしてオアハカへ


メキシコシティの夜明け前。空港で。

 ロスからシティーへ向かう飛行機に乗り込んだ途端、メキシコの空気がむっと濃くなるのはやっぱりうれしい。1列5席のみというローカル線的小型機内には、ぎっしりとラテンの湿度がつまっている。

 航空会社がメヒカーナということもあり、クルーや乗客のほとんどがメキシコ人で、だから前や後ろの席で飛び交うスペイン語は、語尾やトーンが後ろに向かって伸び上がる「粘っこい」メキシコ流だ。こっちも負けずに飲み物をスペイン語でオーダーしてみる。これまでいろんなスペイン語圏の人と知り合ったが、メキシコのスペイン語はゆっくりはっきりしていて、ぼくを安心させてくれる。

 シティーへ向かって飛んでいると、10年ほど前にロサンジェルスの知人を訪ねたときに、彼が言った言葉を思い出して吹き出しそうになる。

 「メキシコなんて危ないところによー行くなあ。高そうな腕時計してた人が、襲われて手首ごと切り落とされたって言うてたでー」

 これはぼくが大学を休学し、メキシコへ渡航途中、ロスにいた彼のもとに立ち寄ったときに聞いた話だ。当時すでに1年間現地に住んでいて、いろんな人たちから聞いたところによると、どうもメキシコはとてつもなく治安が悪く、強盗であふれている国らしいのだ。

 そんなこと言われても、ぼくにとってはロスの方が絶対的に物騒な匂いがする。腕時計の話は多分メキシコに行ったことのない人が、どこかで又聞きしてきて、さらにそれを聞いた知人が、関西式「あることないこと何でも増幅力」で話を大げさにしたのだろう。

 スキを見せたら泥棒に狙われるのはメキシコに限らず世界中どこだって同じだ。仮に切りつけ専門の強盗がいたとしても、金品目当ての犯罪は、まだ動機がはっきりしているだけ、社会にそれほど動揺を与えないとぼくは常々考えている。日本やアメリカで起こっている様々な衝動殺人に比べれば...。

 とは言え学生の頃はやはり知らない土地への不安があって、ロスからメキシコへ初めて飛んだときなどは結構緊張した。メキシコ人の中にぽつりと日本人が座るのは、言葉が通じない場合非常に心細い。黙って隣で座っている体格のいい(というか太めの)おじさんは、ジーンズに黒くて大げさな皮ブーツ、ベルトのバックルは異常にでかく、口ひげをたくわえた上に日焼けしており、見るからに屈強な男だ。ずっと腕組みしている。今考えると案外こういう頑丈そうな強面ほど、飛行機が怖くて黙っていたりしたのかも知れないが、そのときはただ彼のかもし出す雰囲気に圧倒されていた。

 さらにスチュワーデスが話す早口の英語は、なまっているのかよく聞き取れない。何を言われているか分からないと、その分余分に肩に力が入るし、回りの乗客の目つきまで悪く見えてしまったものだ。

 でもそれは何年も前の話で、今回は久しぶりに味わうそんな危うげで濃厚な機内の空気を、ぼくは心から楽しんでいる。なんでもっと早くに、無理してでも来なかったのか、と自分に腹を立てながらも、やっぱりうれしくて仕方なかった。

 それにしても2列前の席の人たち(夫婦かも知れない)は本当に隣同士で一生懸命しゃべっている。

 出発から数時間後には着陸を控えて、夜明け前のメキシコシティーの街を上空から見下ろしていた。あいかわらず大きな都市だと実感するのは、飛行機が高度を下げ、窓から見渡す限りオレンジの灯りが海のように果てしなく広がるときだ。家屋からもれるそのやわらかな灯りは、あるいはランプの火なのかも知れない。シンとした朝の寒さの中で、温かい寝息でも立てるかのように、ゆらゆら瞬きながらどこまでも続いている。地球の起伏を緩やかにのみ込みながら、一面のオレンジだけが闇に浮き上がる様は幻想的だ。そして機体はその淡い灯りの海の中へゆっくりと降りていった。

 外国人用の入国審査の列には、ぼくらの前に数人並んでいたが、順番が来るまでにそれほど時間はかからなかった。2000メートルを超える高地では、4時台という時間のせいか、真夏なのに肌寒い。ぼくらは長袖のシャツを羽織っていた。3人一緒に入国を済ませると、係官が3冊まとめてパスポートを手渡しながら、ぼくらに良い旅を祈ってくれた。

「良い旅を」――もちろん良い旅に決まっている。

 メキシコシティーからオアハカへ。再びぼくらはメヒカーナの小ぶりな機体へ忙しく吸い込まれた。最終目的地のオアハカには8時に着くことになっている。朝日にようやく照らされ始めた滑走路で長い助走をつけた機体は、そっとその重い首を持ち上げた。

 疲れているはずなのに、あと1時間で着くと思うと、ぼくはとても眠れなかった。窓際の席では、アチャがいそいそとスペイン語会話集を開く。これから人に会うから挨拶ぐらいできるようにするのだという。そう、これからグスマン家のみんなが待つ家に向かうのだ。キオとぼくはそれを見て微笑みながら顔を見合わせる。アチャはつくづく勉強家だ。

 「やっと着くね」と静かにつぶやいてみた。

 キオがただ隣でうなずくのが見えた。

 飛行機はメキシコ最高峰ポポカテペトルを右に見ながら、朝焼けの中をまい進している。

 そして1時間足らずで、ぼくは本当にオアハカに降り立った。丸くて背の低い山がずっと遠くに見える。ものすごく青い空に、ものすごく小さな、懐かしい空港。ぼくらを運んだメヒカーナの後ろには、限りない空間が広がっている。そののどかさに、都会に住んで失いかけていた「ゆっくりと流れる時間」を取り戻したような気分になる。

 深呼吸をして、それからゆっくりと歩き出した。マリンバの生演奏が出口の方から聞こえてくる。やわらかで悲しげな音色を奏でる木琴の重奏が、到着客をせいいっぱい歓迎している。そんなメキシコ南部特有の音のぬくもりは、まずはぼくを心の底からほっとさせた。

 今となってはロサンジェレスで足止めを食ったことも、ほとんど眠らずに2日目に突入したことも、もう関係なかった。ただ、6年ぶりに来た、遠いけどやっと来た。それ以外の言葉は思いつかない。ここまで来れば、もう大丈夫だ。ずっと手に入れたかった探し物を、苦労してやっと見つけたときのように、ぼくの口元はずっとニヤッとしたまま戻らなかったのだ――。

  


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