第二話 「ロス、空港の通路は長かった」 (成田−ロサンジェルス空港)


タコスの屋台は定番で、日本のたこやき屋のノリでよく立ち寄った

 遠い国だとつくづく感じる。時差のかなたにあるメキシコは、飛行機の中でブラッディーマリーを何杯飲もうが、いくらシートにうずもれて眠ろうが、なかなか着かない。ロスでさえ10時間前後、ほとんど動かずじっと耐えなくてはならない。頭の中で日本が今何時で、ロスが何時で、メキシコが何時で、などと考えているうちに機内は窓が閉められ真っ暗になり、ぼくは小刻みに浅い眠りを繰り返す。

 左の方の窓際にアメリカ人夫婦が小さな子供を二人連れている。4歳ぐらいの女の子と2歳ぐらいの男の子だろうか。弟のほうは、機体が高度を上げ下げするたびに敏感に反応してぐずるが、お姉さんはそんな時ほど弟の機嫌を取ろうと、努めて明るく笑いかけている。

 眠ろうとして、余分に毛布をスチュワーデスのアメリカ人女性に要求した。少し機内は寒い。

 「1人1枚しかないの。少し寒い?温度を少し上げるから――」。

 スクリーンではロビン・ウィリアムス主演のdead poets society が上映されていた。ぼくは何年も前に見た映画をまた見ている。生徒の一人が自殺してしまうくだりがせつない。

 浅い眠りを何度も繰り返した。日本は真夜中、ロスは同じ日の朝、それもうんと早い朝だと何度も思い出しながら、意識と無意識の間でぼくは時差に対してささやかな抵抗をしている。身動きの取れない時間がうんざりするほど続くが、それも今回はそんなに気にならない。もうすぐだから。

 ロスの時間で到着予定時間が午前9時50分。しかし10時をかなり過ぎても飛行機はまだ高度を下げようとしない。成田空港でさんざん粘ってユナイテッドの乗り継ぎ便を確保したというのに、11時発のその飛行機に乗れなければ、ロスで足止めを食らってしまう。

 機長の声が機内アナウンスで流れる。感度の悪いマイクを通した、おなじみの鼻が詰まったような声だ。

 「空港が他の飛行機で込み合っているため、少し上空で旋回し、管制塔の指示を待ちます。遅れて申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください」。

 隣のキオ(奥さん)とぼくは顔を見合わせた。言葉はない。ただ、「まずい」って眼が言っていた。到着が遅れようが絶対に乗り継ぎを成功させなくてはならない。しかし時間は限りなくぼくらを見放そうとしているのか。とにかく走るよ、とぼくの後ろに座っていたアチャに告げた。添乗員付ツアーでしか海外旅行の経験がない彼女にも、今回ばかりはこういうことにも付き合ってもらうしかない。自分たちでやれるだけのことをやるしかないのだから。

 機体が方向を変えるたび、何度もアメリカ大陸の山肌が大きく傾いて視界に迫ってくる。旋回を繰り返した後、やっと高度が下がり始め、機体が着陸した時すでに10時半を回っていた。次の便の出発までたった30分しかないというのに、今度は到着ゲートまで飛行機がなかなか着かない。ぼくらだけでなく、乗客の大部分が長時間のフライトと出発の遅れで疲れ、いらだっているように見えた。

 そしてぼくらは文字通り走った。どうしてこういうときに限って、入国審査、税関までの通路が長いんだろう。入国審査所を越えて荷物引き取り場所に通じる階段を走り降りたとき、先を進んでいたぼくと、続いてきたキオの間を、数十台もの空カートの行列がゆっくり横切り始めた。まるで待ち伏せしていたかのように空港の係員が何十台ものカートを重ね合わせて目の前で運び始めたのだ。彼女の歩みはカートの流れに遮られ、向こう岸に取り残された。どうして急ぎたいときに限り、こうやって邪魔が入るのか。

 若く細身の黒人職員が、カートの流れを止めてでも前に進まんとするキオを、両手のひらを広げ前に押し出して、ストップさせた。そして繰り返した。

 Take it easy, take it easy! You'll be on time!
(落ち着いて、落ち着いて!間に合うから)。

 落ち着いているひまがないからこうやって走ってるんじゃないか。さらに荷物をピックアップする段で、今度はアチャの荷物がなかなか出てこない。たぶん待ったのは数分のことなんだろうけど、ものすごく長い。

 そしてぼくらはようやく拾い上げたトランクを押しながら、まさに出発時間の午前11時ちょうどにユナイテッド航空のカウンターに、息を切らして到着した。たぶんベストを尽くしたんだと思う。―――でも残酷にもメキシコシティー行きのフライトはすでに飛び立ったんだと告げられたのだ。

 That flight is gone. You missed the flight.
(もう出発してしまいました、乗り遅れです)。

 いや、そんなはずはない。そんなに時間に正確に飛ぶわけがない、少しぐらい遅れることだってあるだろう。デルタだって遅れたんだし。列を無視して、無理やり何人かの職員をつかまえては聞いた。

「もうそのフライトは行ってしまったんだよ。あそこのカウンターで次の便の席を確保してくれないか」。

 わがままな客にはもううんざりだとでも言いたげに、メキシコ系の細身の男は、ビジネスライクに一番奥の行列を指差した。

―――You missed the flight.

 ぼくの頭の中で"missed"という言葉がこだました。

 ただの経由地のはずだったロスで、期せずして足止めに合ってしまったぼくは、shit!とかfuck!とか思いっきり叫びたくなった。

  


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