■■Panchitoのラテン音楽ワールド■■

Archivo #024
「メディオムンド」とウルグアイの黒人文化

 
2月末から3月初旬にかけて、5か月ぶりにウルグアイを旅してきた。今回は「研究」という目的で訪れたのだが、こんなに間を開けずに旅行したのも初めてだし、夏にウルグアイを訪れたのも初めてのことだった。

 ウルグアイの夏といえばカルナバルである。一般に有名なのはブラジル・リオのカーニバルだが、ウルグアイのそれも大変特色があってユニークなもの。しかしメインのパレードは2月初旬にすでに終了。しかし、運よく6000人を収容するという野外劇場テアトロ・デル・ベラーノでのコンサート(1チーム1時間で演目を見せる審査会)は見ることができた。見たのは1日だけだったが、その時たまたま登場したルボロス(黒人音楽カンドンベで行進するチームのカテゴリー名)の「C.1080」は見事本年度のルボロス部門の優勝チームとなった。

チーム「C.1080」のテアトロ・デル・ベラーノでのステージ

 
 ウルグアイにはアフリカ系文化が息づいている。基本的な文化的背景は隣国アルゼンチンと大変似通ったものだが、黒人文化の存在はウルグアイ文化に独自のカラーを与えている。現実には混血が進み、上記のチーム「C.1080」にもまったく黒人らしくない風貌の人も参加している。しかしウルグアイ文化全体の中で黒人系の文化要素が占める部分は大きく、特にカーニバルの時期にはことさら強調されるのである。
 
 
チーム名の「C.1080」とはかつてモンテビデオに実在した、黒人たちがまとまって住んでいたコの字形の集合住宅(コンベンティ−ジョ)だった「メディオムンド」(Mediomundo) の住所、クアレイム通り1080番地のことである。前世紀初頭には(黒人だけではなく)こうしたコンベンティージョと呼ばれる安い集合住宅に住む人たちはもっとたくさんいたはずだが、都市化の波で多くは消えていき、メディオムンドは昔の名残を残す貴重な建造物でもあった。いつもカーニバルの時にはメディオムンドから黒人チームの行進が始まり、最後はそこに帰ってきた。張りめぐらされたひもにいつも洗濯物がはためき、子供から老人まで活気あふれる黒人たちが暮らす、時代を超越したこの不思議な空間は、残念ながら1970年代の軍事政権によって理由もなく取り壊されてしまった。

在りし日のメディオムンド


 今回の旅でプンタ・バジェナス(くじら岬)にある「カサプエブロ」を訪れた。「カサプエブロ」とは、ウルグアイを代表する芸術家カルロス・パエス・ビラローの工房兼博物館兼長期滞在型ホテルの名前である。カルロスはアフロ・ウルグアイ文化に大きな関心を寄せ(どうも私にはピカソがアフリカ文化に傾倒していたことと関連があるように思える)、自らメディオムンドに移り住み、メディオムンド初の白人住民となった。黒人の風俗を描き、メディオムンドで展覧会を開き、自らカンドンベを作曲し、カーニバルのチームで太鼓を叩きパレードに参加した。その一方でかのアストル・ピアソラを音楽監督に招いて「鼓動」(Pulsacion)という映画を監督したりもしており、その活動の幅は広い(兄ホルヘ・パエス・ビラローも有名な画家で、やはりモンテビデオに博物館があるが、作風の違う兄弟の仲は良くないらしい)。

 今回この博物館の売店でカルロスが1980年にニューヨークで出版した本「メディオムンド」が新たに再版されていたので買い求めた。カルロスの絵だけではなく、在りし日のコンベンティージョの生活をかいま見せる写真も収録されている。

 数年前に知り合ったウルグアイの黒人タンゴ歌手で、アフロ文化保護団体ムンド・アフロの主宰者でもあるラグリマ・リオスも、私にメディオムンドの人間味あふれる生活ぶりを語ってくれたことがある。そしてわけもなくメディオムンドを取り壊した軍政への怒りをあらわにしていた。

カルロスは黒人文化を商売道具にした、という批判的な意見もなくはない。しかし黒人文化の揺りかごだったメディオムンドが不幸にして伝説になってしまった今、アフロ系文化の豊かさを伝える手段として、カルロスの作品には大きな意味があるとも思えるのだ。

 その一方でラグリマのような黒人側の守り手もいる。メディオムンドは失われたが、モンテビデオ中心部の市場の2階にあるムンド・アフロはその展示で黒人文化の歴史を伝えている。「カーニバル以外の時にも黒人が重要になって欲しいの」そうラグリマは語っていた。


参考文献:
Carlos Paez Vilaro " Mediomundo - Un mundo de recuerdos" (el autor, 2000)