■■Panchitoのラテン音楽ワールド■■

Archivo #016
メキシコの異才(1) 〜オルガンの魔術師、エルネスト・ヒル・オルベーラ

米BMG 74321-32290-2
"Las Estrellas del Fonografo"
ERNESTO HILL OLVERA
(1995)

 中南米の国々には往々にして欧米では出てこないような、突拍子もない天才アーティストが出現する。特にメキシコはディエゴ・リベーラ=フリーダ・カロ夫妻、ルフィーノ・タマヨ、オクタビオ・パス、ルイス・バラガンなどそうした稀有の才能にあふれた土地である。音楽とて例外ではない。しかしここでは世界的に有名にならずとも、不思議な光を放つ音楽家を何回か紹介しよう。
 今回はオルガン奏者エルネスト・ヒル・オルベーラである。

 ヒル・オルベーラが活躍したのは1950〜60年代、華やかなりしメキシコ・シティのナイト・クラブや劇場である。レコードもそれなりにあるのだが、日本では発売されず、まったく無名の存在といってよい。しかし私が最近入手した Hugo De Grial "Musicos Mexicanos"(Editorial Diana, 1978)の中でもきちっと扱われており(この本は民族的な作品を 残した作曲家が中心に取り上げられており、ポピュラー畑のアーティストは決して多く選ばれていない)、そこでの肩書きには Organista e inventor (オルガン奏者/発明家・考案者)とある。

 1936年サカテカス州の貧しい家に生まれた彼は、7歳の時母親と散歩中に落雷に遭い、両目の視力を失う(この時どうして視力が失われたかについてはわかっていないという)。やがてその前からレッスンを受けていたピアノに才能を発揮、12歳からレストランで演奏を始める。ある時、そのレストランのオーナーがオルガンを購入、ヒル・オルベーラはその時まで全く知らなかった楽器オルガンにすっかり魅せられる。
 そのオルガンを研究しつくしたヒル・オルベーラは、微妙な強弱や音の組み合わせによって、まるで人が歌っているかのように聞こえる特殊な演奏法を独学で習得。そのスタイルは歌詞を知らない曲でも、その部分の文句が浮かんでくるほどよく出来たものである。彼の肩書きが「考案者」となっているのはそれ故である。しかしオルガンで初めてそのスタイルを使って「パンチョ・ロペス」(アメリカ西部の民謡「デイビー・クロケット」をメキシコ流に翻訳したもの)を演奏した時、観客の反応は冷たいものだった。オルガンは所詮レストランのバックグラウンド・ミュージック程度にしか思われていなかったからである。
 しかしヒル・オルベーラはめげずに弟の助けを借りメキシコ・シティへ移住、何とか劇場でショウの中で演奏する機会を得る。グアダラハラのレストランで1日6ペソだった日給は1日100ペソになった。ところが初日からヒル・オルベーラの演奏は大評判となり、15日後にはギャラは1日1500ペソ、その翌週には2000ペソになった。このときわずか18歳、結婚した後、新婚旅行も兼ねて中南米巡演にも出かけた。
 コロンビアやベネズエラの大統領の前で演奏し、彼らを驚かせたこともあった。RCAビクトルに録音したレコードは、1956年、57年と連続で「黄金のレコード」賞を受賞。57年にはニューヨークへ演奏旅行へ行き、そこで受けた治療でほんのわずかではあったが視力を回復している。その後、メキシコでは彼のスタイルを真似ようと多くのオルガン奏者が試みたというが、成功した人は一人もいなかった。

 果たして今では存命かどうかもわからないが、その妙技をCDで聞くことは出来る。少し前の発売だが、おそらくLP2枚の音源を組み合わせたと思われる、1995年発売の上記米BMG盤があり、「時計」「キエレメ・ムーチョ」などラテンの名曲を中心に、アルゼン チン・タンゴの名曲や、ベネズエラの「平原の魂」、ペルーの「ラ・パンパ・イ・ラ・プーナ」まで独自の人声オルガンのスタイルを交えて聞かせてくれる。「ラメント・ボリンカーノ」など4曲には有名トリオのロス・トレス・アセスが共演、オルガンとトリオ・ボーカルが交代で歌いついでいく編曲がユニーク。名門マリアッチ・バルガスとの共演もあるが、やはりリズム伴奏だけで、まさに「歌うがごとく」演奏されるボレロが白眉だろう。
 メキシコでももはや忘れられているかもしれない。まさに一世一代、彼ただ一人の芸だったのだ。