■■Panchitoのラテン音楽ワールド■■

Archivo #010
「マリア・ボニータ」〜メキシコ映画のディーバと「黄金のやせっぽち」のロマンス

米CARINO DBL1-5165 "Maria Felix interpreta a Lara"
(メキシコRCA盤の再発売盤LP、1975年)
Por que negar / Escarcha / Limosna / Noche de ronda / Te quiero / Volveras / Arrancame la vida / Cada noche un amor / Rival / Solamente una vez

CINE RADIO & ACTUALIDAD 1952年4月18日号(ウルグアイ)

 メキシコの大女優マリア・フェリクスが88歳の誕生日を迎えたまさにその日、この4月8日に亡くなった。日本で知られた出演作は1954年のフランス映画「フレンチ・カンカン」、伝説の革命女戦士「ラ・クカラチャ」を描いた「大砂塵の女」(1959年)ぐらいのようだが、全部で50本近くの映画に出演したので中南米では非常に広く知られており、今回のニュースも各国の新聞で大きく扱われた。

 もう一つ彼女を有名にしていたのが、各界有名人とのアバンチュール。正式な結婚はたった(?)4回だったが、画家のディエゴ・リベーラを始め、映画監督、俳優、政治家、大富豪、スター歌手らとのロマンスには事欠かなかった。芸能雑誌が喜ぶようなネタをいつも提供していた。

 彼女の4回の正式の結婚のうち、2回は音楽家との結婚だった。2回目の相手がメキシコ・ポピュラー音楽界屈指の作曲家アグスティン・ララ、3回目の相手が当時人気絶頂ののメキシコ映画界最大のスターだった歌手ホルヘ・ネグレーテ。マリア・フェリクスの格から言えば、ホルヘ・ネグレーテはまさに頂点を極めたもの同士の究極の相手。一方のアグスティン・ララはすでに40歳を過ぎており、やせこけて髭もなく、およそマリアと似合いのカップルとは言いがたい。しかし「黄金のやせっぽち」(Flaco de oro) と呼ばれたボヘミアン、アグスティン・ララと「ディーバ」マリア・フェリクスには共通点があった。2人とも結婚・離婚を繰り返し、亡くなるまでロマンスの絶えない人だったことである。マリアとアグスティンという、いかにも不釣り合いそうなこのカップルは結局マリアの生涯で一番世間の注目を浴びたようだ。

 アグスティン・ララ(1900-1970)がマリア・フェリクスと知り合ったのは1943年頃のこと。すでにアグスティンは「アベントゥレーラ」「ラ・クンバンチャ」「グラナダ」「南国の夜」(Noche criolla=日本ではハワイアンのスタンダードになっている)などのヒット曲を書き、すでに有名な作曲家で、ピアノ弾き語りでラジオやレコーディングにも活躍していた。そしてちょうど最初の結婚が破局した後でもあった。

 一方マリアは15歳の時の一回目の結婚相手との離婚訴訟がこじれ、その手続きのためメキシコ・シティに初めて出てきたとたん、映画プロデューサーに見そめられ、あれよあれよという間に映画に出演、しかもその映画は大ヒット(主演男優は何と10年後に結婚することになるホルヘ・ネグレーテ)。しかし映画撮影後ネグレーテの伴奏者だったトリオ・カラベラスのラウル・プラードと駆け落ち、しかし短期間であっさり破局、という調子ですでに波乱に満ちた人生をスタートしていた。

 ある映画の試写会でマリアに会ったアグスティンは一目惚れし、連日アクセサリーや毛皮などのプレゼントを贈り続けた。ついに1945年のクリスマス・イヴに結婚、ハネムーンで訪れたアカプルコで名曲「マリア・ボニータ」(可愛いマリア)が生まれる。

あの夜のアカプルコを思い出しておくれ/可愛いマリアよ、心のマリア、思い出しておくれ/浜辺で君は小さな手で星をもてあそんでいた/君の身体はいたずらな海の波に流され、ブランコのように君は揺れていた/正直に言うけど、私の想いは私自身を裏切っていたんだ
 心にささやくような君の美しさを、私はたくさんの言葉で表わした/私を愛してくれるようにと/私の夢が現実になるようにと願いながら/二人を見ていた月はちょっとの間だけ、知らんふりをしていてくれた。私は月が隠れたのを見て、君に口づけし我が人生のすべてを捧げるためひざまずいたのです

 結局幸せな結婚生活はわずか1年ほどしかもたなかった。マリアが他の億万長者に心ひかれてしまったためである(しかしその億万長者とは結ばれず、ホルヘ・ネグレーテと結婚するがネグレーテの死によって1年2ヶ月で再び結婚生活は終わってしまう)。ラテンの名曲「マリア・ボニータ」がさまざまなアーティストによって取り上げられるようになったのは、楽譜出版の1947年以降。すでに2人は離婚した後だったというから、何とも皮肉である。その後、アグスティンは酒と女をこよなく愛し、病と闘いながら名曲を書き続け、マリアは競馬に興じながら、フランス映画にも出演、映画の仕事をあまりしなくなってからも実業家、闘牛士、俳優などと次々に恋をした。

 2人の結婚生活が終わってから17年後、マリア・フェリクス歌によるアグスティン・ララ作品集というLPが企画された。もちろん本人たちの企画であったとは思えない。RCAビクトルのプロデューサーの気まぐれと言ったところか。それは1964年に全10曲を収めたアルバム RCA VICTOR MKL-1554 "Maria Felix interpreta a Lara"として発売されたが、それほど大きな話題にもならなかった。というのもマリアはあまり歌がうまくないのである。音程はそれほど悪くないが、声が低く、つぶやくように無表情で語るスタイルでは一般受けはしない。それでも不思議と耳に残るのは長年の女優業で鍛えられた技か。全体の半分の伴奏をアグスティン・ララ楽団が請け負ったことになっているが、本人のピアノは聞こえてこないし、果たして当のララは本当に伴奏に参加していたかどうか怪しい。さすがに「マリア・ボニータ」は収録されなかった。

 2人の破局から23年後、まず「やせっぽち」が世を去り、それからさらに30年後、ディーバも天に召され、「マリア・ボニータ」だけが残った。

 今回のマリアの死を報じるアルゼンチンの新聞に彼女の生前の名言が出ている。

−私は男の心を持った女であり続けた、ただそれだけ。
−私に忠告なんてやめてちょうだい。私は一人で過ちを犯す方法をちゃんと知ってるの。
−何十年間にも渡る成功なんて運の問題じゃないわ。気力(agallas)よ。
−他の人が私を愛してくれたほど、私は人を愛したことはないわ。でもそれが私が一度として傷ついたことのない理由よ。

マリア・フェリクスの公式ホーム・ページ:http://www.mariafelix.com.mx