■■Panchitoのラテン音楽ワールド■■

Archivo #008
名曲「ベサメ・ムーチョ」の真実

"Besame mucho"
アメリカ版楽譜表紙
(1943年発行)

「ベサメ・ムーチョ」
日本版楽譜表
(1950年3月30日発行)

17センチEP盤2枚組
米RCA VICTOR EPB-1089
(1955年発売)
Besame mucho / C'est si bon / Estrellita / A thousand violins
他全8曲

Besame, besame mucho, como si fuera esta noche la ultima vez
Besame, besame mucho...que tengo miedo de perderte, de perderte despues...
(たくさんキスして、まるで今夜が最後であるかのように/たくさんキスして、後であなたを失ってしまうのが恐いから...)

 ラテン世界のベタ甘ラヴ・ソングの代表として、世界中に知られている「ベサメ・ムーチョ」。発表されたのは1941年、当時何と21歳の才能あふれるハリスコ生まれの女流ピアニスト、コンスエロ・ベラスケス Consuelo Velazquez の作詞・作曲による最初の作品であった。

 発表当初はボレロではなかったともいわれるが、この曲が世界的に広く知られるようになったのは、メキシコ本国よりアメリカで大きな評判をとったからでもある。最初のヒットは1942年、「アマポーラ」「ブラジル」「グリーン・アイズ」など新旧のラテン名曲に英語詞をつけてスウィング・アレンジで次々にヒットさせていたジャズ畑のジミー・ドーシー・オーケストラのレコードだった。スカイラーによる英語詞は原詞に比較的忠実で、

Besame, besame mucho... Each time I cling to your kiss, I hear music divine
Besame, besame mucho... Hold me, my darling, and say that you'll always be mine
といった具合。英語の副題は "Kiss me much" で、全くの直訳だった(上写真左が当時アメリカで出された楽譜の表紙)。

 さらに翌年メキシコ出身の美男歌手として1940年代のハリウッド映画にも多数出演したアンディ・ラッセル(ルーセル)の英語バージョンもヒット、折しも戦争真っただ中のアメリカでこのメキシコ発のロマンティック・ソングはヒットしたのだ(アメリカ版楽譜表紙の隅にも「戦争債券を買って勝利に貢献しよう」なんて書いてある)。

 日本では、この戦争があったために1941年以降のヒット曲は戦後しばらく経つまで輸入されず、「ベサメ・ムーチョ」も5〜6年遅れで進駐軍放送(現在のFENのもと)を通じて聞かれ始めたという。やっと1950年になって日本語詞が付き「ベッサメ・ムーチョ」として黒木曜子が歌った盤(タンゴ・バンドの早川真平とオルケスタ・ティピカ東京が伴奏、形式はルンバ)が発売され、ヒットとなる(上写真右が当時の日本発売楽譜表紙)。

「ベサメ ベサメ・ムーチョ 燃ゆる接吻(くちづけ)を交す度 ベサメ・ムーチョ いつもいつも流れる曲(しらべ)」

 同じ頃、それまで進駐軍放送でよく流れていたアメリカのラテン王、ザビア・クガート・オーケストラの演奏も日本で発売された。クガートのムーディなスタイルにニタ・デル・カンポが甘いスペイン語の歌を入れ、後半には原曲にないテンポをあげたパートがくっついているもので、戦前のルンバ演奏とは異なる流麗なスタイルはさぞ新鮮だったことだろう。

 しかし日本人にとってこの曲の決定版は何と言ってもトリオ・ロス・パンチョス。でもパンチョスにとってこのレパートリーは偶然の産物であった。1945年に結成されたこのトリオは、アメリカ発の対中南米ラジオ放送でスターダムにのし上がり、1950年頃から中南米諸国を回る長期ツアーに出ていた。ところが途中でトップ・ボイスのエルナンド・アビレスが意見の対立から脱退することになり、残った2人は慌ててペルー滞在時に目をつけていたボリビア人ボレロ歌手、ラウル・ショウ(シャウ)・モレーノを呼び寄せ、残った公演を何とか新メンバーで消化することにした。とは言え、すでに中南米諸国でのパンチョスの人気は高く、長いツアー中でも新しいレコードを出さないわけには行かない。そこで苦肉の策として、すでにある程度知られたレパートリーを入ったばかりの助っ人ラウル・ショウをトップにアルゼンチンで録音した。その中に偶然「ベサメ・ムーチョ」があったのだった。

 この時の録音には「キエレメ・ムーチョ」「ソラメンテ・ウナ・ベス」などすでに知られ始めていたラテンの名曲が多く、日本ではこれらのレコードがパンチョス初紹介のレコードとなった経緯もあって大いにヒットした。 1959年、ジョニー・アルビーノをトップ・ボイスに迎えたばかりのパンチョスは初来日を果たし、そこで「ベサメ・ムーチョ」を再録音、日本のこの曲の人気を決定的なものにした。最近のパンチョス(もうメンバーは変わっているがトップ・ボイスはアルビーノが特別参加している)のコンサートでも、パンチョス独自のイントロを弾き始めただけで拍手が来るのだから、どれほど多くの人に知られていたか想像がつこうというものだ。

 有名になった曲は独り歩きを始めるものだ。パンチョス系のトリオはもちろんこぞってとりあげているが、フルバンド・オーケストラによるルンバ、マンボなどのアレンジ、タンゴやボサノヴァ・アレンジ、はたまた音楽のこぎり(ミュージカル・ソウ)や琴・尺八 による演奏まで、軽く300種類は越えようかという数の録音が残されている。アート・ペッパーの名演奏を始め、ジャズのスタンダード・ナンバーとしても通用している。

 しかしこの曲、実は一般に思われているようなベタベタ・カップルの甘〜いラヴ・ソングではなかったのである。音楽レポーターの竹村淳氏があるCD解説にこう書いている−:「ところが数年前メキシコ市で耳にした話によると、『ベサメ・ムーチョ』はベラスケスさんの女ともだちの夫が入院中なので見舞ったとき、容態が思わしくなく、自分の最後が近いことを悟っていた病床の夫君が夫人に『たくさんキスして』とせがんだということを聞いて作った歌だというのである。」(かたりべしゃ CLS-002 ベサメ・ムーチョ〜ポ ンチョの新しい世界/レイ・アルフォンソ正田 CDライナーより)

 この曲には作者コンスエロ・ベラスケスによる自作自演も存在する。いずれも歌なしのピアノ演奏(リズム伴奏付き)のみで、1955年頃のRCA盤が最初だろう。かつて日本でも発売されたことはあったが、あろうことかジプシー・バイオリンの演奏とカップリングされ、ムード・ミュージックとして発売されていた。さらに1968年にメキシコのテレビ番組で彼女が演奏した映像が、1994年日本ビクター VIVP-59「ベサメ・ムーチョ/ラテン・ビッグ・スター夢の競演」というビデオに収録され発売されていた(現在廃版)。LPの時とは大分アレンジも異なり、力強いタッチによる大胆な展開が作者の豊かな創造力をかいま見せる。同じ68年にはやはりRCAでステレオによる再録音を行っているが、これもまた大胆なリズム変化を加えたアレンジで以前のバージョンとは異なる。3つの演奏に共通しているのはベタ甘ラテンのイメージとは大きく隔たったものであるという点。力強さと華麗さ、それが作者がこの曲に寄せたメッセージなのかも知れない。

 コンスエロ・ベラスケスはメキシコRCAビクターの社長と結婚したので、演奏活動はほんの余技程度だが、大変優れたピアニストである。観光や親善目的で数度来日したが、コンサート活動のために来日したことはない。息子の神前結婚式のため来日した際には「『ベサメ・ムーチョ』の作者来日」として写真週刊誌にまで報じられた。コンスエロ・ベラスケスの作品には他にも、「お幸せに」(Que seas feliz)、「愛することと生きるこ と」(Amar y vivir)、「苦い真実」(Verdad amarga)などいい曲がたくさんあるのだが、「ベサメ」の知名度はあまりに大きすぎる。