エムカとの日々(最終章) 

−エムカいなくなる!の巻−

1997年6月。エムカは私たちの前から、突然その愛らしい姿を消してしまった。

当日の午後4時頃、中庭で大工仕事をしていたアビラ家の大黒柱・ホセお父さんが、近所のおばちゃんにおすそ分けしてもらった鳥骨を、おいしそうに食べるエムカを目にしている。私がエムカを迎えに行ったのは、それから4時間後のことだった。

(もっと、早く迎えに行っていれば…。)
エムカのあのつぶらな瞳を思い浮かべては、何度悔やんだことだろう…。

その年は、日本人が初めてメキシコに移民してからちょうど100年目にあたり、それを記念すべく、日本大使館や日本商工会議所主催による公式行事が開かれた。そのため、日本からは秋篠宮殿下夫妻や橋本首相(当時)、衆参両院議員の代表団数名がメキシコ入りした。彼らの大半は、常夏のリゾート地カンクンまで足を伸ばし、当時私が勤めていた会社が経営するホテルに宿泊することになった。土地柄、利用客の大半はアメリカ人で、ホテルに常駐している日本人スタッフは少なかった。そこで、秋篠宮殿下夫妻をはじめとするご一行の滞在期間中、私は助っ人としてカンクンに送られることになり、エムカは2週間ほどアビラ家でお留守番をすることになったのである。

もともとエムカはアビラ家で育ったので、道に迷ったということは考えられない。私がアパート暮らしを始めてからも、週末を利用してエムカと泊りに行っていたので、彼女にとっては“ちょっと実家に戻る”といった感覚だったはずなのだ。おまけに散歩の時はいつも鎖なし。たまにグズグズしているエムカを置いて、私だけさっさと家に戻ったりしたのだが、エムカは必ず少し遅れて戻ってきた。

(もしかしたら、車に轢かれたのかもしれない。)
不安にかられた私は周辺を隈なく探し歩いたが、エムカの亡骸らしきものは見あたらなかった。これには正直ホッとした。生きていれば、きっと誰かに可愛がられるはずだから。

エムカは、アビラ家ではいつも中庭に放し飼いになっていたこと。中庭は広く、ご近所さん数人に駐車場としてスペースを提供していたことなどから、私はある推論を立ててみた。

誰かが車を出し入れした際、開け放たれた扉からエムカが外に飛び出した。その人はそれに気づかず、中庭の門を閉めて去ってしまった。道端に残されたエムカは中に入ることができず、しばらく近くをウロウロしていたが、やがて誰かの目にとまり、連れ去られてしまったのではないか。

「エムカー! エムキータァ〜!」

懐中電灯を手に、私は泣きながら彼女の名を叫んで歩いた。目と耳に、ありったけの意識を集中して歩いた。でも結局は何の収穫も得られず、失意のどん底状態でアビラ家に戻った。その晩、私は泣き疲れて眠りについた。
翌朝。早起きをした私は、アビラ家の斜め前にある小学校の正門で、次々にやってくる子供たちやその父兄に、エムカらしき犬を見たかどうか聞いて回った。そして通りに人気がなくなった頃、泣きはらした目のまま、遅れて出勤した。

あれ以来、気がつくとエムカのことを考えている。一緒に過ごした、あの短かかった日々の出来事を、表情豊かなエムカの何気ない仕草や、鼻のまわりのソバカスを思い出している。本気で喧嘩して、吠えられたり腕を噛まれたりしたこともあった。

今、エムカはどこで、どんな人たちに囲まれて暮らしているのだろう。すぐ調子に乗って、叱られてはいないだろうか。街を歩いていて、エムカと同じコッカー・スパニエル犬を見かけると、ついつい顔を確かめてしまう。エムカがいなくなってから身に着いた哀しい習慣。きっとこれは、私がメキシコシティを去るその日まで続くことだろう。エムカは私にとって単なるペットではなく、確実にそれ以上の存在だった。

  


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