エルミラばあちゃん(1)
〜オトキータ、メキシコで老いについて考えるの巻〜

我が愛するアビラ家のエルミラばあちゃんは今年81才。

2年前、階段から落ちて足の骨を折ってから、歩くのが恐くなった。恐怖心から歩くことを避けているうちに、本当に歩けなくなった。たえずイスに座っているため、足はいつしかゴボウのようになり、夜、寝返りがひとりで打てなくなってからは、体の至るところに床擦れができてしまった。

ばあちゃんは毎日テラスでじっとしているのだけれど、持病の糖尿病のせいで、いつもお腹が空いている。お医者さんから、糖分・油分を出来るだけ取らないようにと言われているので、好物のタコスやパンはほとんど食べさせてもらえない。だから、ばあちゃんはいつも遠い目をして、タコスやパンに想いを馳せる。まるで、昔の恋人を想うかのように。

エルミラばあちゃんをトイレに連れて行く。
一見簡単なようで実はすごく奥が深い作業である。彼女が全身に力を込めて寄り掛かってくるので、しっかり支えてあげないといけないのだが、床擦れを触れないので、まずどこを掴んだらいいのか頭をひねる。そして、何とか体勢が整ったところで、トイレ目指していざ出陣!

汗をかきかき寝室を出て、やっとこさ目的地に辿りつくと、更なる難関が待ち受けている。トイレの入り口は狭くて、二人同時に入れない上に段差まであるのだ。

ばあちゃんはガリガリにやせているのになぜか重たい。彼女を無理に持ち上げようとすると、こちらが腰を痛めてしまう。だから、ばあちゃんが自分から足を持ち上げ始めるまで、声をかけながらひたすら待つのである。

そして中に入ると、彼女のズボンとパンツを脱がして、便器に座らせる。ふぅ。ここでほっと一息。

でも、たまにバランスを失って、紙相撲のようにパタリと倒れてしまうから、横でじっと見守っている必要がある。時々は、踏ん張れるように手をギュッと握ってあげる。

たいてい10分程すると、「Ya.(もう終わったよ。)」って教えてくれるから、今度は彼女をよっこらしょと持ち上げて、お尻をきれいに拭いてあげるのだが…。ここで気をつけないといけないのは、ばあちゃんの言葉を鵜呑みにしないこと。パンツを上げようとしてかがむと、まだうんちが顔を出していたりする。

「ばあちゃん、まだうんちしてるよー。」 

おお慌てで再び便器に座らせる。

「そうかねー。わたしゃようわからん。」

こ、これが老いるということなのか…。

私が生涯忘れえないであろう衝撃的事件に遭遇したのは、去る土曜日の朝。

トイレに入ってフタを開けたら、汚物がぷかぷか浮いていた。うっ。マジでつまってる…。メキシコの水洗事情ははっきり言ってヒドイ。そう言えば、ここ何日か、ばあちゃんのお腹の調子がよくないことを思い出した。

よし、トイレ掃除をしよう。爽やかな土曜の朝。(たまにはトイレ掃除から始めるのも悪くはないだろう。)

何気なくコックをひねったら、水が勢いよく流れ出し、汚水がざざあぁーっと床にあふれ出てしまった。

「……。」

オトキ−タ、メキシコはじまって以来の大ピーンチ!

しばらく途方にくれていたが、ずっとそうしているわけにもいかず、気を取り直して、拭き掃除に取りかかる。そこへタイミング良く? 例によってエルミラばあちゃんの叫び声。

「オトキィ〜タ〜、トイレに行きたいよぉ〜。早くしないとわたしゃお漏らししちゃうよぉー。」

「今、お掃除してるからもう少し待ってェー。」

「オ、オトキータァァァァァァ〜!」

吐き気を押さえながら、うんちにまみれている内に、何とも言えない空しさが込み上げてきた。はらはらと涙を流し、鼻水をずるずるさせながら、私はいつしか日本のおばあちゃんのことを思い出していた。そう言えば随分ご無沙汰をしてしまっている。家に電話して近況でも聞いてみるか。

トイレ掃除を終えた私は、手を洗って階段を下りた。エルミラばあちゃんの声を背に受けながら。

ここアビラ家で居候生活を始めるまで、お年寄りと住んだことがなかった私。“老い”について考えたことなど一度もなかった。 

我が子や孫に囲まれての、笑いの絶えない楽しい余生。この理想とも思える生活を送っている老人は意外と少ないのではないだろうか。実際、病気のお年寄りの世話をするのは容易なことではない。看病による疲れやストレスからイライラがつのり、些細なことから家族内でのいさかいが生まれる。皆が現実を受け入れて、前向きに協力し合って乗り越えようとしなければ、事態は徐々に深刻化するばかりであろう。

エルミラばあちゃんを見ていて時々無性に悲しくなることがある。人の注意を引こうとして、わがままを言うのかもしれないが、「ありがとう」 とか 「ごめんなさい」 とかいう言葉が彼女の口から出てこないのだ。その何気ない一言で、世話をする人の疲れやストレスを多少なりとも和らげることができるのに…。

自分が老いた時、果たしてどんな余生が待っているのだろう。今は全く見当がつかない。ただ分かっているのは、誰しもいつかは老いに直面するということ。

−大切なのは老いを恐れるのではなく、今をいかに生きるか-

先のことをあれこれと考えてみても始まらない。自分がどういう人生を歩んできたかが、老後の生活に少なからず反映してくると思う。

私は何事にも感謝の気持ちを忘れない、謙虚なお年寄りになりたい。

  


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